ギーゼキング ドビュッシー前奏曲集のSACD [クラシックCD]
英国EMIによる往年のアナログ録音のSACD化が進行しています。その中からギーゼキングのドビュッシー前奏曲集を購入してみました。SACDもCD同様、第一巻と第二巻が一枚に収録されています。
この演奏も度々リマスターが行われており、新たなリマスター盤が出る度に購入し直していましたが、現在はartリマスタリング盤で聴いていました。
この録音は1953、54年のモノラル録音ですが、他のギーゼキングのEMIへのスタジオ録音同様にタッチがボヤケていて、角が丸められた音質で収録されています。それでも録音年代を考慮すれば、ギーゼキング独特のタッチはそれとわかる程度には捉えられていることは良しとしたいところです。当時の録音技術でギーゼキングの強靭なタッチを捉えるには、タッチをぼかしてダイナミックレンジを圧縮させることでしか、その全体像が収められなかったのかもしれません。
artリマスター盤は、そうした範囲内でギーゼキングのこの曲の演奏をほぼ不満なく再生してくれます。さて、SACDではこのギーゼキングのタッチがどう聴こえるのでしょうか?
まず、例によってDSDリマスタリングの音質を確認すべくハイブリッドのCD層から。おやーっ、詰まり気味だったその音質が見事に解き放たれて、随分と五体満足な安心して聴ける音に生まれ変わっています。DSDリマスタリングの音質改善はこうした効果をもたらすこともできるというのは初めて知りました。英国EMIによる他のハイブリッド仕様のSACD同様に、これはDSDリマスタリングのCDとしても十分買い直す価値はあろうというものです。
そしてSACD層へ。今度はさらに帯域レンジが広がって、新しい録音に近づいてきたかの印象です。ただしもしかしたら、これはほどほどにレンジが抑えられたCD層の音の方が聴きやすい音かもしれません。けれども本来のアナログマスターテープには、ここまで精細な情報量の音が収録されていたのかということでは断然SACD層の方が勝ります。わずか1年違いですが、後から録音された第二巻の方がさらに良好な音質で収録されています。
さて、久しぶりにこの曲をギーゼキングで聴いてみると、この曲の代表的演奏として評価の高いミケランジェリやツィマーマンといった演奏に比べると、やはり随分と個性的です。ギーゼキング独自の個性とは、何もしていないというところから生まれてくる「素」が持つ強さと凄みです。一例を挙げれば、何の思い入れもなくポーカーフェイスで打ち降ろされる「沈める寺」における左手の強靭な鐘の音などミケランジェリやツィマーマンが束になってかかっても敵わない凄みが感じられます。
何もしていないというのは、敢えてピアニスティックにきれいに弾こうとはしていないということでもあります。ミケランジェリやツィマーマンでは、ドビュッシーの書法がピアニスティックにきれいに響くように翻案されて演奏されていて、それはそれで聴く上での楽しみにもなります。ところがギーゼキングは敢えてピアニスティックには翻案せず楽譜のままに弾き現わしているので、ドビュッシーがこれら前奏曲集の各曲に盛り込んだ革新的な響きの面白さがダイレクトに伝わってきます。ミケランジェリやツィマーマンの演奏ではピアニスティックに翻訳されているが故にわからなかったのですが、今回久しぶりにギーゼキングの前奏曲集を聴いて、前奏曲集本来の翻訳されていない素の面白さを改めて実感することができました。
ギーゼキングのピアノを聴いていると、まるでアクリルに封じ込められた動植物の標本を見ているかのような印象を受けます。その強靭なタッチは弾力性も兼ね備えていながら、かつどこまでも透明で、その透明感のあるタッチの中に音楽はスタティックに封じ込められています。
そのスタティックな外観からは少し意外に感じられるのですが、ギーゼキングのテクニックは現在の水準から見れば結構ラフで、早いパッセージなど弾き崩れのほころびも見られます。
その名前すら知らない若い人がギーゼキングの演奏を聴いたら、いったいどんな感想を持つのか興味が持たれるところです。ぶっきらぼうで素っ気ないラフな演奏に聴こえるのか、それとも非常に個性的な演奏に聴こえるのでしょうか。
前奏曲集第1巻、第2巻 ギーゼキング(p)
前奏曲集第1巻、第2巻 ギーゼキング
この演奏も度々リマスターが行われており、新たなリマスター盤が出る度に購入し直していましたが、現在はartリマスタリング盤で聴いていました。
この録音は1953、54年のモノラル録音ですが、他のギーゼキングのEMIへのスタジオ録音同様にタッチがボヤケていて、角が丸められた音質で収録されています。それでも録音年代を考慮すれば、ギーゼキング独特のタッチはそれとわかる程度には捉えられていることは良しとしたいところです。当時の録音技術でギーゼキングの強靭なタッチを捉えるには、タッチをぼかしてダイナミックレンジを圧縮させることでしか、その全体像が収められなかったのかもしれません。
artリマスター盤は、そうした範囲内でギーゼキングのこの曲の演奏をほぼ不満なく再生してくれます。さて、SACDではこのギーゼキングのタッチがどう聴こえるのでしょうか?
まず、例によってDSDリマスタリングの音質を確認すべくハイブリッドのCD層から。おやーっ、詰まり気味だったその音質が見事に解き放たれて、随分と五体満足な安心して聴ける音に生まれ変わっています。DSDリマスタリングの音質改善はこうした効果をもたらすこともできるというのは初めて知りました。英国EMIによる他のハイブリッド仕様のSACD同様に、これはDSDリマスタリングのCDとしても十分買い直す価値はあろうというものです。
そしてSACD層へ。今度はさらに帯域レンジが広がって、新しい録音に近づいてきたかの印象です。ただしもしかしたら、これはほどほどにレンジが抑えられたCD層の音の方が聴きやすい音かもしれません。けれども本来のアナログマスターテープには、ここまで精細な情報量の音が収録されていたのかということでは断然SACD層の方が勝ります。わずか1年違いですが、後から録音された第二巻の方がさらに良好な音質で収録されています。
さて、久しぶりにこの曲をギーゼキングで聴いてみると、この曲の代表的演奏として評価の高いミケランジェリやツィマーマンといった演奏に比べると、やはり随分と個性的です。ギーゼキング独自の個性とは、何もしていないというところから生まれてくる「素」が持つ強さと凄みです。一例を挙げれば、何の思い入れもなくポーカーフェイスで打ち降ろされる「沈める寺」における左手の強靭な鐘の音などミケランジェリやツィマーマンが束になってかかっても敵わない凄みが感じられます。
何もしていないというのは、敢えてピアニスティックにきれいに弾こうとはしていないということでもあります。ミケランジェリやツィマーマンでは、ドビュッシーの書法がピアニスティックにきれいに響くように翻案されて演奏されていて、それはそれで聴く上での楽しみにもなります。ところがギーゼキングは敢えてピアニスティックには翻案せず楽譜のままに弾き現わしているので、ドビュッシーがこれら前奏曲集の各曲に盛り込んだ革新的な響きの面白さがダイレクトに伝わってきます。ミケランジェリやツィマーマンの演奏ではピアニスティックに翻訳されているが故にわからなかったのですが、今回久しぶりにギーゼキングの前奏曲集を聴いて、前奏曲集本来の翻訳されていない素の面白さを改めて実感することができました。
ギーゼキングのピアノを聴いていると、まるでアクリルに封じ込められた動植物の標本を見ているかのような印象を受けます。その強靭なタッチは弾力性も兼ね備えていながら、かつどこまでも透明で、その透明感のあるタッチの中に音楽はスタティックに封じ込められています。
そのスタティックな外観からは少し意外に感じられるのですが、ギーゼキングのテクニックは現在の水準から見れば結構ラフで、早いパッセージなど弾き崩れのほころびも見られます。
その名前すら知らない若い人がギーゼキングの演奏を聴いたら、いったいどんな感想を持つのか興味が持たれるところです。ぶっきらぼうで素っ気ないラフな演奏に聴こえるのか、それとも非常に個性的な演奏に聴こえるのでしょうか。
前奏曲集第1巻、第2巻 ギーゼキング(p)
前奏曲集第1巻、第2巻 ギーゼキング
2011-12-12 08:12
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こんにちは。
音楽から遠ざかり気味のこの数年です。
SACDも気になりながら手元には数えるほどしかありません。
だいいちプレーヤーも非対応の旧型、
いずれはSACD対応型にしないといけない?
と、思いながら何年も経ってしまいました。
でも、ギーゼキングのドビュッシーですか、、、
ちょっとそそられますね。
by e-g-g (2011-12-30 18:07)
>e-g-gさん、ご訪問ありがとうございます。
SACDでは確かにボケていたギーゼキングの音がぐっとリアルに蘇りました。
でも、これはLPともCDとも異なる音です。
想像上のギーゼキングの音はやはりLPの方が近いような気もしますが、SACDで今まで聴こえなかった音が聴けるようになるというのも、また楽しみの一つです。
by Mickey (2011-12-30 18:43)