モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ ホ短調K.304の聴き比べ [クラシックCD]
通し番号で24番から43番までの中で実質完成された曲は17曲あるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ中(23番以前の作品は偽作と少年時代の習作)、第28番K.304は唯一の短調の曲になります。ほとんど同時期に書かれたイ短調K.310のピアノ・ソナタにも共通する、短調のモーツァルト特有のメランコリックな表情が魅力的です。往年の名盤バリリとバドゥーラ=スコダによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集のセットを新たに購入したついでに、この曲の手持ちの盤の演奏を聴き比べてみました。
まず初めは、今回購入したこのバリリ、バドゥーラ=スコダ盤です。一聴、バリリのヴァイオリンの端整なウィーン風モーツァルトの節回しに魅了されます。今聴くと、現在の水準では随分とポルタメントが大きいのに驚かされますが、それが古臭さではなく、何とも言えない懐かしさを感じさせてくれて、むしろチャーミングに聴こえます。バドゥーラ=スコダのオットリとしたピアノもバリリと抜群に良い相性を聴かせてくれています。
こういう往年のアナログのモノラル録音をCDで楽しめるというのは、タイムマシンで遠い昔に戻ったかのような錯覚を覚えさせられますが、その遙か昔の世界の中にいつまでも浸っていたいと思わせる演奏です。
次はバリリ盤とほとんど同時代のステレオ初期の名盤グリュミオー、ハスキル盤です。未だにこの曲の決定盤としての高い定評を持つ演奏です。私はこの演奏はハスキルによるフィリップスへのモーツァルトの録音を集めたセットの中の一枚として所有しています。
今回久しぶりに取り出して聴いてみると、やはりハスキルのピアノの美しさに惹きつけられました。どこまでも深く沈み込んでいくような独特なタッチで聴かせてくれる、そのタッチでこの曲を聴けるというのは、やはり無上の幸せです。
一方の全盛期のグリュミオーも負けず劣らずチャーミングで艶やかなモーツァルトを聴かせてくれます。ただ、その突き詰め方はハスキルにはかないません。
次は少し時代が下ってシェリングとヘブラー盤です。私は個人的にシェリングの厳しすぎて微笑みに欠けるモーツァルトをあまり高く評価しないので、LP時代には所有していなかった演奏です。これも今回CDの全集盤のセットとして購入したもので、この曲もその中の一曲になります。
先入観を捨てて、あらためてこの演奏を聴いてみると、やはり端整なシェリングのヴァイオリンはそれなりに美しいと思いました。モーツァルトでこれだけスッキリと弾いてしまうというのは、逆にシェリングならではの長所と言えそうです。シェリングの余分な夾雑物の交じらない演奏からは、この短調の曲そのものの本来の美しさが滲み出てくるようです。
ヘブラーのピアノはいつものように、モーツァルトのチャームがこぼれ落ちるようです。今回聴いてみて、自分だけの閉じられた孤独な世界の中で大切にモーツァルトの音楽を醸成していく、その音作りの方法は、あらためてハスキルとの共通性を強く印象づけられました。ちなみにもう一人のモーツァルト弾きの女流の大家リリー・クラウスは、その世界が外に向かって開かれているということではハスキルやヘブラーとまさに対照的です。
次は時代がさらに下って、デュメイ、ピリス夫妻による演奏です。共に大のモーツァルト弾きのエキスパートとして知られる二人の共演です。今回、聴き直してみてピリスのピアノに、「オヤッ?」と思わせられるところがありました。これは録音の録り方の印象も関係しているのかもしれませんが、ピリスが弾こうとしている表現意欲は必ずしも表情の美しさには結びついていないように聴こえてしまうからです。ピリスであれば、この曲だからこそ、さらにチャーミングな演奏が可能だったのではと思ってしまいます。
一方、デュメイのヴァイオリンはと言うと、これは聴き直してみて、あらためてデュメイのモーツァルトの卓越性を思い知らされました。デュメイのモーツァルトには、グリュミオーやシェリングといった大先輩のモーツァルトには聴かれない、何と細やかな表情が付加されていることか。シェリングやグリュミオーの時代の演奏に比べると、デュメイをはじめとする今日のヴァイオリニストたちの演奏には、はるかに細やかな表情が聴かれるようになってきました。その細やかな表情付けとアゴギークが少しもうるさくならずに、表面上はスッと運んでしまうところが、またデュメイのモーツァルトの凄さです。
最後はこれらの中では一番新しい、スタインバーグ、内田光子による演奏です。内田のピアノはここでも、もの凄い集中力で聴かせます。内田のモーツァルトは、明らかにハスキル、ヘブラーの延長線上にあり、それをさらに深化させたということができるでしょう。
この内田のピアノに対する新人のスタインバーグのヴァイオリンには疑問符が付きます。スタインバーグは新しい人らしく、初めはピリオド演奏かと思ったほど、極力ヴィヴラートを廃した弾き方が特徴です。現在ではピリオド奏法によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの演奏を収めたCDも随分多くなってきましたし、私は個人的にもピリオド演奏にはアレルギーが無い方です。ただ、ヴィヴラートたっぷりのモダンヴァイオリンでこの曲を聴き馴染んだ世代としては、この美しい短調のソナタのメロディーだけは、ノンヴィヴラートのピリオド奏法のヴァイオリンで弾かれるのは勘弁して欲しい、というのが正直なところです(例えモーツァルト在世当時はノンヴィヴラートだったにしても)。
このノンヴィヴラートに近いスタインバーグの演奏を初めて耳にしたときはそれがピリオドとは思っていなかっただけに、正直びっくりしました。このヴァイオリンだったら、内田もライナーノートで書いているように、フォルテピアノの伴奏の方がふさわしかったかもしれません。また、スタインバーグのヴァイオリンも、こういう弾き方だったらピリオド奏法に徹してしまった方がいいのでは、とも思ってしまいます。
ただ、ヴァイオリニストに対しては、時代の進化の中でどのように新しさを出していくのかが常に求められます。例えばデュメイは彼以前のヴァイオリニストより、はるかに細やかな表情付けを聴かせるようになりました。では、その後はどうやったらいいのか? その一つの回答として、クレーメル以降の新しいヴァイオリニストの中には、極力ヴィヴラートを抑える方向と、モダン奏法の中にピリオド奏法を取り入れる傾向が見えてきました。そうした中で、スタインバーグがこの人なりに新しさを追求している意欲は買いますが、それが人を納得させる完成度にまで高まるのにはまだもう少し時間がかかりそうです。
ヴァイオリン・ソナタ集 ワルター・バリリ(3CD)
ヴァイオリン・ソナタ集(第25、28、32、34番) グリュミオー(vn)、ハスキル(p)
ヴァイオリン・ソナタ集Vol.1 シェリング(vn)、ヘブラー(p)
ヴァイオリン・ソナタ集 K.301、304、378 デュメイ / ピリス
ピアノとヴァイオリンのためのソナタ集 内田光子、M.スタインバーグ
まず初めは、今回購入したこのバリリ、バドゥーラ=スコダ盤です。一聴、バリリのヴァイオリンの端整なウィーン風モーツァルトの節回しに魅了されます。今聴くと、現在の水準では随分とポルタメントが大きいのに驚かされますが、それが古臭さではなく、何とも言えない懐かしさを感じさせてくれて、むしろチャーミングに聴こえます。バドゥーラ=スコダのオットリとしたピアノもバリリと抜群に良い相性を聴かせてくれています。
こういう往年のアナログのモノラル録音をCDで楽しめるというのは、タイムマシンで遠い昔に戻ったかのような錯覚を覚えさせられますが、その遙か昔の世界の中にいつまでも浸っていたいと思わせる演奏です。
次はバリリ盤とほとんど同時代のステレオ初期の名盤グリュミオー、ハスキル盤です。未だにこの曲の決定盤としての高い定評を持つ演奏です。私はこの演奏はハスキルによるフィリップスへのモーツァルトの録音を集めたセットの中の一枚として所有しています。
今回久しぶりに取り出して聴いてみると、やはりハスキルのピアノの美しさに惹きつけられました。どこまでも深く沈み込んでいくような独特なタッチで聴かせてくれる、そのタッチでこの曲を聴けるというのは、やはり無上の幸せです。
一方の全盛期のグリュミオーも負けず劣らずチャーミングで艶やかなモーツァルトを聴かせてくれます。ただ、その突き詰め方はハスキルにはかないません。
次は少し時代が下ってシェリングとヘブラー盤です。私は個人的にシェリングの厳しすぎて微笑みに欠けるモーツァルトをあまり高く評価しないので、LP時代には所有していなかった演奏です。これも今回CDの全集盤のセットとして購入したもので、この曲もその中の一曲になります。
先入観を捨てて、あらためてこの演奏を聴いてみると、やはり端整なシェリングのヴァイオリンはそれなりに美しいと思いました。モーツァルトでこれだけスッキリと弾いてしまうというのは、逆にシェリングならではの長所と言えそうです。シェリングの余分な夾雑物の交じらない演奏からは、この短調の曲そのものの本来の美しさが滲み出てくるようです。
ヘブラーのピアノはいつものように、モーツァルトのチャームがこぼれ落ちるようです。今回聴いてみて、自分だけの閉じられた孤独な世界の中で大切にモーツァルトの音楽を醸成していく、その音作りの方法は、あらためてハスキルとの共通性を強く印象づけられました。ちなみにもう一人のモーツァルト弾きの女流の大家リリー・クラウスは、その世界が外に向かって開かれているということではハスキルやヘブラーとまさに対照的です。
次は時代がさらに下って、デュメイ、ピリス夫妻による演奏です。共に大のモーツァルト弾きのエキスパートとして知られる二人の共演です。今回、聴き直してみてピリスのピアノに、「オヤッ?」と思わせられるところがありました。これは録音の録り方の印象も関係しているのかもしれませんが、ピリスが弾こうとしている表現意欲は必ずしも表情の美しさには結びついていないように聴こえてしまうからです。ピリスであれば、この曲だからこそ、さらにチャーミングな演奏が可能だったのではと思ってしまいます。
一方、デュメイのヴァイオリンはと言うと、これは聴き直してみて、あらためてデュメイのモーツァルトの卓越性を思い知らされました。デュメイのモーツァルトには、グリュミオーやシェリングといった大先輩のモーツァルトには聴かれない、何と細やかな表情が付加されていることか。シェリングやグリュミオーの時代の演奏に比べると、デュメイをはじめとする今日のヴァイオリニストたちの演奏には、はるかに細やかな表情が聴かれるようになってきました。その細やかな表情付けとアゴギークが少しもうるさくならずに、表面上はスッと運んでしまうところが、またデュメイのモーツァルトの凄さです。
最後はこれらの中では一番新しい、スタインバーグ、内田光子による演奏です。内田のピアノはここでも、もの凄い集中力で聴かせます。内田のモーツァルトは、明らかにハスキル、ヘブラーの延長線上にあり、それをさらに深化させたということができるでしょう。
この内田のピアノに対する新人のスタインバーグのヴァイオリンには疑問符が付きます。スタインバーグは新しい人らしく、初めはピリオド演奏かと思ったほど、極力ヴィヴラートを廃した弾き方が特徴です。現在ではピリオド奏法によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの演奏を収めたCDも随分多くなってきましたし、私は個人的にもピリオド演奏にはアレルギーが無い方です。ただ、ヴィヴラートたっぷりのモダンヴァイオリンでこの曲を聴き馴染んだ世代としては、この美しい短調のソナタのメロディーだけは、ノンヴィヴラートのピリオド奏法のヴァイオリンで弾かれるのは勘弁して欲しい、というのが正直なところです(例えモーツァルト在世当時はノンヴィヴラートだったにしても)。
このノンヴィヴラートに近いスタインバーグの演奏を初めて耳にしたときはそれがピリオドとは思っていなかっただけに、正直びっくりしました。このヴァイオリンだったら、内田もライナーノートで書いているように、フォルテピアノの伴奏の方がふさわしかったかもしれません。また、スタインバーグのヴァイオリンも、こういう弾き方だったらピリオド奏法に徹してしまった方がいいのでは、とも思ってしまいます。
ただ、ヴァイオリニストに対しては、時代の進化の中でどのように新しさを出していくのかが常に求められます。例えばデュメイは彼以前のヴァイオリニストより、はるかに細やかな表情付けを聴かせるようになりました。では、その後はどうやったらいいのか? その一つの回答として、クレーメル以降の新しいヴァイオリニストの中には、極力ヴィヴラートを抑える方向と、モダン奏法の中にピリオド奏法を取り入れる傾向が見えてきました。そうした中で、スタインバーグがこの人なりに新しさを追求している意欲は買いますが、それが人を納得させる完成度にまで高まるのにはまだもう少し時間がかかりそうです。
ヴァイオリン・ソナタ集 ワルター・バリリ(3CD)
ヴァイオリン・ソナタ集(第25、28、32、34番) グリュミオー(vn)、ハスキル(p)
ヴァイオリン・ソナタ集Vol.1 シェリング(vn)、ヘブラー(p)
ヴァイオリン・ソナタ集 K.301、304、378 デュメイ / ピリス
ピアノとヴァイオリンのためのソナタ集 内田光子、M.スタインバーグ
2010-01-11 14:21
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