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エマールとツィマーマンによるラヴェルのピアノ協奏曲 [クラシックCD]

エマールは現代音楽のスペシャリストして知られるピアニストですが、近年はベートーヴェンの協奏曲集など古典物も手掛けるようになりました。アーノンクールとのその協奏曲のCDは清新かつチャーミングな好感のもてる演奏でした。今回のラヴェルはDGへのデビュー盤ということで、ブーレーズ~クリーブランド管の伴奏で、両手用と左手用の2つの協奏曲にソロによる「鏡」がフィルアップされています。

深いペーソスが漂う左手用もいい曲なのですが、ここでは両手用の協奏曲の印象について書いてみます。両手用のト長調協奏曲はラヴェルらしい悪戯っぽい仕掛けがいっぱいのところが気に入っています。


Piano Concertos / Miroirs

Piano Concertos / Miroirs

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Deutsche Grammophon
  • 発売日: 2010/10/05
  • メディア: CD


この大好きな曲をエマールはどう弾くのか、期待が高まります。さて、結果は? これが、イマヒトツ。というのは全くの予想通りのクールで淡泊な弾き方に終始していて、その限りにおいては模範的な演奏なのですが、残念ながらそれ以上でもそれ以下の出来でもありません。

この曲に関しては初めて聴くことになるピアニストの場合は、好き嫌いは別にしても、そこからは常にそのピアニストによる何らかの新しいメッセージが発見できました。ところがエマールの演奏からは、この演奏で初めて聴けたという新しいメッセージが全く届いて来ないのです。それだけ完成度の高い演奏なのだと言われれば、その意見には反対しませんが。

両手協奏曲の第一楽章には足を踏み鳴らすフラメンコのような楽句が展開部とコーダでピアノソロに現れます。私はここの印象からこの曲はラヴェルのスペイン趣味の曲かと思っていましたが、どうもラヴェルの出身地である「バスク風」らしいのです。まあ、バスク地方もスペインとフランスの中間みたいな場所ですが。ともあれ、その叩きつけるようなピアノソロ楽句の胸のすくような爽快感はこの曲を聴く楽しみの一つです。ところが、エマールは全曲中の聴きどころでもあるここの打鍵が弱いので、私のこの演奏への全体の評価としてもだいぶ点数を落としてしまいました。

良くも悪くも無味無臭の蒸留水のようなエマールの演奏は、ブーレーズが指揮するオーケストラに完全に溶け込み一体化しています。エマールはブーレーズが主宰するアンサンブル・コンテンポランの一員でもあったという経歴が証明しているように、エマールの演奏はさながらブーレーズ自身がピアノを弾いているのではないかとすら思わせるところがあります。それが反面、エマールの物足りなさを感じさせてしまう所以なのですが。

ピアノソロがオーケストラのオブリガートとして扱われているという書法は、この曲のラヴェルの狙いの一つでもあったわけですから、その役割に徹したエマールの解釈は、ピアニストの慧眼としてむしろ賞賛されるべきものなのかもしれません。ブーレーズのオーケストラが素晴らしいだけに、その中のオブリガートピアノとしては、こんな演奏がふさわしいのかもしれません。


ラヴェル:ピアノ協奏曲、他

ラヴェル:ピアノ協奏曲、他

  • アーティスト: ツィマーマン(クリスティアン),ラヴェル,ブーレーズ(ピエール),クリーヴランド管弦楽団,ロンドン交響楽団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2009/04/29
  • メディア: CD


さて、ラヴェルの両手と左手の2つの協奏曲にはブーレーズが相方を務めている、もう一人のピアニストによる録音が同じDGから出ています。もう一人はツィマーマンです。今回エマールを聴いたついでに、手持ちの盤からこちらの両手協奏曲も聴いてみました。さて、こちらのピアノの演奏は?

ウーン、蒸留水のように淡泊なエマールの演奏に比べるとツィマーマンは何と様々な表情を付け加えていることか。エマールの演奏が楷書ならば、ツィマーマンの弾き方は草書とまではいかないにしても行書ぐらいには自在な表情がつけられています。ブーレーズの解釈は基本的にはエマール盤と大差がないだけに、ピアニスト側の独自の主張が全く見られないエマール盤からこちらに移ると、ツィマーマンというピアニスト側からの発言量の多さに、むしろびっくりさせられるほどです。久しぶりに聴いてみて、この曲のツィマーマンはこんなにも雄弁だったのかと改めて驚かされました。フラメンコのような叩きつける箇所の弾き方も、エマールよりずっと左手の抉りの深さが効いているのが、うれしいところです。

ただしツィマーマンの考え抜かれた表現は、頭で考えられた表現と受け取れるところもあり、そのすべてが結果的にこの曲を面白くしているとは言い切れない面も見られます。けれども、きれいな音で表現されるその強い思い入れにはツィマーマンらしいナルシスティックなチャームが感じられます。こういうナルシスティックな(つまり我儘な)弾き方は、なぜかポゴレリッチやアンデルジェフスキなどの東欧圏のピアニストに共通して見られるのは面白いと思います。

それにしてもエマールとツィマーマンという対照的な二人のピアニストに共演しているブーレーズには、それぞれのピアニストの弾き方がどう映っているのか、はなはだ興味が持たれるところです。


【HQCD】ラヴェル&ラフマニノフ:ピアノ協奏曲

【HQCD】ラヴェル&ラフマニノフ:ピアノ協奏曲

  • アーティスト: ミケランジェリ(アルトゥーロ・ベネデッティ),ラヴェル,ラフマニノフ,グラチス(エットーレ),フィルハーモニア管弦楽団
  • 出版社/メーカー: EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)
  • 発売日: 2009/03/18
  • メディア: CD


さて、私がこの両手協奏曲を初めて聴いたミケランジェリのピアノによる演奏をあらためて取り出して聴いてみました。何しろ半世紀以上も前の1957年のアナログステレオ録音なので、現在のデジタル録音に慣れた耳にはさすがに時代を感じさせる録音です。それでもミケランジェリのタッチやオケの色彩感はそこそことらえられていて、録音年代を考えれば当時としては驚異的な好録音といえます。

他のピアニストからミケランジェリに戻ってこの曲を聴くのは久しぶりのことになります。ウーン、久しぶりに聴くとミケランジェリはやはり完璧。今聴き返してみると、ミケランジェリの演奏は当時としても崩しのないキッチリとした楷書の演奏だったことがわかります。何も余分なことはしていないのに、この曲から聴きたい面白さが薄気味悪くなるほど的確に掬い出されています。ミケランジェリは決して大きな音が出せるピアニストではないのに、フラメンコ箇所の打鍵の威力も十分効いています。第二楽章の冒頭のソロなど、そのふつうに聴こえる曲想が実はかなり異常な虚無感をたたえたものであることを実際の音で弾き出せているのも唯一ミケランジェリだけです。

この曲を初めて聴いたのがミケランジェリで良かったと改めて思われますが、初めにツィマーマンやエマールからこの曲に入っていった人がミケランジェリを聴いたら、いったいどのように感じるのでしょうか。

思い入れの強いツィマーマンによる行書の演奏に対して、ともにクールな楷書の演奏であるというところにエマールとミケランジェリにはある種の共通性が感じられます。エマールの演奏はミケランジェリの演奏をより現代的にしてなおかつ毒気を抜いたように聴こえます。その意味で録音が新しいだけに、この曲のクールな一面をより良い音で聴こうというニーズには、ちょうどエマール盤が該当しそうです。その一方でツィマーマンのナルシスティックな表情にも捨てがたい魅力が感じられるのですが。

ピアノ協奏曲集、鏡 エマール、ブーレーズ&クリーヴランド管弦楽団
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ピアノ協奏曲、左手のためのピアノ協奏曲、他 ツィマーマン、ブーレーズ&クリーヴランド管、ロンドン響
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Piano Concerto, 4, : Michelangeli(P)Gracis / Po +ravel: Concerto
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だいたい、このラヴェルの両手用のト長調ピアノ協奏曲は不思議な曲です。一見軽妙でコミカルな外観をしているので、中身も特に奇を衒ったところのない普通に常識的な形が採用されているかに思われます。ところが実際は極めて異常でいびつな作りになっているところに、ラヴェルらしい斜に構えた皮肉な眼差しが感じられます。だいたい鞭の一打から始まる冒頭からしてふつうとはいえません。

鞭の一打で始まる第一楽章のソナタ形式の構造自体が極めて畸形です。あっさりと終わる短い提示部と、それに続く展開部もすぐに終わってしまいます。そしてラヴェルはこの楽章の主軸を長い再現部に置いているようです。この楽章は再現部が始まる前までがいわば前座ないし予告で、この再現部からが本来の提示部でもあるかのように聴こえます。

この再現部では提示部で手短に紹介されたテーマ群が凝りに凝ったオーケストラの色彩を施されて拡大されて再登場します。それは決して展開なのではなく、あくまで拡大再現です。例えば提示部ではピアノソロだけで提示され、ほとんど気にも止まらなかった第2テーマの第2句は異常なまでに拡大され、ハープの左手によるテーマが右手によるゴージャスなグリッサンドを伴いながら再現されます。同じテーマはさらにその後ホルンのソロと木管群によるグリッサンドの伴奏という形で繰り返されます。初めのハープのグリッサンドをその後で木管が繰り返すというオーケストレーションも通常では考えられないアイデアです。

この再現部の凝りに凝ったオーケストレーションのためにラヴェルはこの曲を書いたのではないかと思えるほどです。ソナタ形式全体の中で再現部が最も長く書かれているということ自体、この楽章の構造がいかに畸形で異常な形をしているかがわかります。

この曲のオーケストレーションというのはこの第一楽章の第2テーマにもうかがえるように、さまざまな繰り返しの魔術が施されているように思われます。第二楽章冒頭のピアノソロだけによる長い長いモノローグは、この楽章の再現部でこれまた長い長いイングリッシュホルンのソロにより、ほとんどそのまま再現されます。このイングリッシュホルンのソロは、恐らく歴代の全ピアノ協奏曲中、木管楽器のソロに与えられた楽句としては最長の長さになるのではないでしょうか。それもたかだか20数分の曲の中で行われているということ自体、実はきわめて異常なことではないでしょうか。

ハープによる第一楽章の第2テーマやイングリッシュホルンによる第二楽章のテーマの再現など、これらの一例を挙げたこの曲に見られる様々な繰り返しの魔術を、ラヴェルはしたたかに楽しんでいるのではないかと思われます。そう、それはまさに「ボレロ」のアイデアなのです。ラヴェルはボレロで試みた繰り返しの悪戯の楽しみをこの協奏曲で再び堪能しているようです。
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