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ハーディング~新日本フィルのコンサートから 春の祭典・他 [クラシック演奏会]

ダニエル・ハーディング~新日本フィルのコンサートを聴きました。プログラムはチャイコフスキーの交響曲第4番にストラヴィンスキーの「春の祭典」のたった2曲。地元さいたま市での土曜のマチネコンサートで、2時開始で、アンコールなしできっかり午後4時には終わってしまいました。

大好きなチャイコの4番にハルサイが一緒に聴けるというのは、私にとって信じられないような破格のプログラミングです。しかも地元さいたま市の埼玉会館でのコンサートです。ハーディングだって、前から気になっていた指揮者です。これは聴きにいかずにはいられません。ヘヴィーな2曲なので、演奏時間の短さは許すとしましょう。

ハーディング.jpg私がハーディングを初めて知ったのは、ドイツカンマーフィルを指揮したヴァージン盤の何枚かのCDでした。そこに聴くハーディングは、ピリオド奏法を取り入れた先鋭な解釈を聴かせるポスト・アーノンクールとも呼べるような指揮者としての印象でした。日本の新日本フィルとはミュージックパートナーという肩書なので、セミ常任ぐらいの位置づけになるのでしょうか。この指揮者らしくヴィウラートは抑制気味とはいえ、もちろん、新日本フィルとの演奏ではピリオド奏法が取り入れられているわけではありません。

ハーディングによるドイツカンマーフィルとのブラームスの交響曲第3番と第4番のカップリング盤は鮮烈なピリオド奏法の効果も相俟って、目から鱗のように新鮮なブラームスでした。これに気を良くしてマーラー室内管とのマーラー交響曲第4番のヴァージン盤を購入してみました。ところが、これが全くの期待はずれ。すっきり整理整頓されたマーラーというのも、それはそれで新鮮に聴こえるはずなのですが、結果はマーラーの色彩的なメルヘンの魅力がものの見事にことごとく失われてしまった貧血症のような演奏にがっかりしました。マーラーの交響曲中最少の三管編成とはいえ、この曲を演奏するにはやはり室内オケでは薄いストリングス部などどうしても無理があるようです。現在の水準ではあまりに貧しい音質の、遥か大昔のメンゲルベルグのSP録音によるこの曲の演奏の方が、皮肉にも、何と色彩的に聴こえることか。ハーディングはその後、DGのようなメジャーレーベルにもマーラーを録音していますし、新日本フィルとのマーラーも名物になっていて、東日本大震災発生の当日における第5番公演は伝説として伝えられています。けれども、このヴァージン盤を聴く限り、マーラーにおけるハーディングの実力に懐疑的にならざるを得ないのですが。

さて、通常のモダンオケを指揮したハーディングの出来やいかに? しかも今回は生です。

チャイコフスキーの4番は通常の2管編成ですが、この日の新日本フィルはハルサイに併せて弦のプルトは最大規模が取られ、ホルン6本を含む3管規模に拡大されて演奏されました。5管のハルサイはさらにエキストラが加わっているのかもしれません。

ハーディングの指揮は予想に反してかなり遅めのテンポでしたが、極めてバランス感覚が整理されたすっきりしたクリーンな演奏に、この指揮者の特徴がよくわかりました。久しぶりに聴く日本のオケがここまで技術力が向上しているのも驚きでした。ハーディングが聴かせてくれる整ったバランス感覚のおかげで、チャイコフスキーのオーケストレーションの巧みさと美しさが改めて認識させられました。

チャイコフスキーのこの曲は曲そのものがしつこいほどにこってり書かれているので、こういうすっきりした指揮は解毒剤のように爽やかです。それだけに、この曲だったら、本来の2管で通した方がこの指揮者のシャープな持ち味は生きたかもしれません。

20分の休憩後にメインディッシュのハルサイです。ハーディングの指揮はハルサイでもこの曲ならではの暴力的な打楽器の強調は一切見られず、慌てず騒がずじっくりと腰を据えた丹念な仕上げに終始した演奏でした。もちろん、バーンスタインやティルソン・トーマスなど一部の指揮者が試みるフィナーレの終結でのタムタムのスリ打ちの追加というオマケ(個人的には結構これが気に入っているのですが、実際は採用している版による違いのようです)など、ハーディングが採用するはずがありません。

今日は席がS席で二階正面の前方だったので、ハーディングのオケのコントロールのバランス感覚の良さが、視覚も手伝って手に取るようにわかりました。生のコンサートでは録音で聴こえるような細部は拾いにくいのですが、席に恵まれたせいかストラヴィンスキーの想像以上に凝った細部のテクスチュアが視覚も手伝ってよくわかりました。もちろん、それを可能にしたのはハーディングの指揮の賜物なのですが。

それにしても、ここでも最近の日本のオケの技術力の進歩に目を見張らされました。オケにとって超難曲といわれたこの曲が今ではここまで、普通にこなせるようになったとは!! バスーンのトップは女性で、彼女による冒頭のソロもきれいでした。

初めて生のモダンオケとの演奏に接したハーディングですが、通常のモダンオケを指揮するハーディングは、ピリオド奏法を取り入れた室内オケとの演奏で聴かせる先鋭な方向性は影をひそめ、極めてまっとうで丁寧な整ったバランス感覚の音作りを聴かせる指揮者であることがわかりました。正直、私の好みではもう少し毒のあるカリスマ性が欲しくなるのも事実です。こういう演奏は視覚を伴わないCDでは、さらに物足りなく聴こえるかもしれまん。けれども生で聴く限り、久しぶりに聴いた日本のオケの実力の高さと、そこから見事なバランス感覚の音楽を引きだした演奏には、良質な音楽を聴けたという満足感は十分味わえました。

ハーディングのDGへのメジャーデビュー録音はマーラーの第10交響曲で、しかも相手は名門ウィーンフィルです。アーノンクールはウィーンフィルに対してもノンヴィヴラートで通していましたが、ここでのハーディングはウィーンフィルに対してノンヴィヴラートは要求していないのでしょうか。ハーディングはどうやら、通常のモダンオケを指揮する若きマエストロとして、ポスト・アーノンクールではなく、ポスト・ラトルとしての道を歩み始めたようです。個人的には、ハーディングにはモダンオケを指揮するマエストロへの道ではなく、ピリオド奏法のオケとのポスト・アーノンクールのような先鋭な演奏を極める方向を望みたいのですが。ところで、CDでのマーラーの交響曲第4番ももう一度聴き直してみることにしましょう。


2011年レオンハルトのコンサートから [クラシック演奏会]

グスタフ・レオンハルトのチェンバロソロリサイタルを聴きました。カリスマとしてのオーラを放ち続けるグスタフ・レオンハルトは、私にとっての永遠のアイドル(偶像)です。レオンハルトは近年では07年、09年と来日していますが、今回は07年に続いての邂逅です。今回の来日は80歳を過ぎた奏者の高齢と、大震災後ということで来日を危ぶんでいましたが、無事開催されました。

近年のレオンハルトは演奏レパートリーがますます自分の好きな曲だけに偏る傾向が顕著に見えてきました。コンサートもそれらの現在のレオンハルトが好む地味な曲ばかりで埋められています。それらの曲は敬愛する老巨匠の好みではあるものの、誠に残念ながら、バッハ以外の多くは私の好みではありません。それでも、老巨匠の生の演奏に接することができるのは大きな喜びです。

レオンハルト.jpg私が行った日の今回のプログラムは前半はル・ルーの組曲にデュフリの小品集6曲をメインに据え、バッハの平均律第二巻のホ長調で締め括られ、後半がバッハのリュート組曲ホ短調と「イタリア風のアリアと変奏」というものでした。いずれも近年のレオンハルトが好む曲が集められていて、レコーディングとコンサートで度々取り上げられている曲ばかりです。これでもバッハが入っている分、今回の来日プログラムの中では一番ポピュラーな選曲です。

近年のレオンハルトはフランスバロックの鍵盤曲が大のお気に入りらしくフォルクレやルイ・クープランは度々取り上げられていますが、今回の前半のプログラムではその中からル・ルーとデュフリが演奏されました。確かにこれらの作品には他の作曲家の作品にはない独自の魅力が認められるものの、その一方で、フランソワ・クープランとラモーという二人の偉大なフランスバロックの作曲家の作品の前では、これらの作曲家の作品が現代の聴衆の間からは忘れられていったのも肯けるような気がします。正直なところ、レオンハルトだったら聴いてみたい曲は他にたくさんあります。

さて、この日の楽器はヒストリカルのジャーマンモデル、ミートケの二段鍵盤のレプリカでした。近年のレオンハルトの来日コンサートはほとんどこの楽器が使われているのではないでしょうか。この楽器はジャーマンモデルというイメージから想像される渋い音色では決してなく、晴れ晴れとした明るく力強い音色を聴かせてくれます。今回の座席は幸い後方の左側だったので、二段鍵盤のレジストレーション操作もよく見え、何よりも会場のトッパンホールの響きが良く、チェンバロの生の音が十分堪能できました。

80歳を過ぎたレオンハルトの長身痩躯の風貌は、ますますこの世離れした凄みを感じさせるようになってきました。演奏の方はその風貌とは反対に、むしろ年齢を重ねるに従って穏やかさを増しているようです。これは我々の耳がレオンハルト独特のイネガル奏法とその後のピリオド演奏に慣れてきたというせいもあるのかもしれませんが、かつてのような強い隈取は確かに薄らいでいます。

演奏はもちろん、私が苦手とする前半のフランスバロックも入念、彫心鏤骨の引き込まれる名演でしたが、やはり後半のバッハの方に強い共感を覚えました。

近年のレオンハルトはフランスバロックの鍵盤作品と並んで、バッハでは何故かリュートや他の楽器用の曲からのチェンバロへの編曲物を好む傾向が見られます。この日はリュート用のホ短調組曲が取り上げられましたが、チェンバロ用には左手は補っているのでしょうか。同じくリュート用の「前奏曲、フーガとアレグロ」もレオンハルトが大好きな曲で、来日時のプログラムには必ず組み込まれる曲です。私も別の来日コンサートの折りに2回ほど聴いています。 バッハの器楽曲の中では決して傑作とは思えない作品ですが、レオンハルトの演奏で聴くと、リュート風のアルペジオ主体の音の運びがチェンバロでもしみじみとした満ち足りた雰囲気を醸し出していて、これはこれでいい曲だと思わせてくれます。

ホ短調組曲もいい演奏でしたが、やはりこの日の圧巻は最後に置かれた「イタリア風アリアと変奏」でした。バッハにしてはホモフォニックな書法が目立ち、組曲のガランテリーを集積したような変奏が続く曲です。バッハの作品中では複雑な対位法の書法が薄いこの特殊な曲を、現在のレオンハルトだからこそ取り上げた理由がよくわかる、レオンハルトの熱い思いがダイレクトに伝わるいい演奏でした。

アンコールは無伴奏チェロ組曲第4番のサラバンドのチェンバロ用編曲でした。レオンハルトによるこの組曲全曲の録音も残されていますが、アンコールまでいかにもレオンハルトらしい選曲で締め括られました。

レオンハルトはちょうどこの来日コンサート時に84歳を迎えたということです。近年はほぼ2年ごとに来日している、この老巨匠の生の演奏会にこの先もずっと接し続けていたいものです。次は2013年になるのでしょうか。

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エマールのラヴェル「ピアノ協奏曲」BS放送から [クラシック演奏会]

先にエマールのピアノによるラヴェルのピアノ協奏曲(両手用)ト長調のCDについて書きましたが、何とエマールのこの曲の演奏がNHK BSからコンサートの記録として放映されました。伴奏はデュトワ~N響です。

IMG_2917A.jpg
2011.01.30 NHK BS hi クラシック倶楽部より

先のブログではエマールのこのCDにおける演奏の印象として、「無味無臭、蒸留水のような演奏で、まるでここで伴奏しているブーレーズ自身がピアノを弾いているかのような演奏」と書きましたが、生の演奏会ではその印象が正しかったのか否か、はなはだ興味の持たれるところです。

さて、実際は? ウ~ム、やはりエマールはニコリともしない石部金吉のように剛直な演奏です。言い換えれば、この人のピアノはそれぐらい真面目な演奏なのです。

この曲はピアノとオーケストラのためのディヴェルティメントといった趣のある曲なので、その喜遊性を前面に押し出して演奏するピアニストも見られます。ところがエマールはそうした喜遊性には目もくれず、ただひたすら真面目に真摯にピアノパートに立ち向っています。汗びっしょりになりながら曲に立ち向っていくその姿は、予想していたようなクールなものではなく、むしろひたむきな真摯さが伝わってくるものでした。

これでCDにおけるエマールの無味無臭の印象の原因がわかりました。この曲の演奏をどのように個性的に弾いて聴かせるかというのはエマールの関心には全くないことであり、エマールの関心はスコアにあるピアノパートを「何も足さず、何も引かず」に、いかに細大漏らさず忠実に演奏に置き換えられるかということなのです。その意味ではエマールのこの曲のピアノパートの演奏は歴代のこの曲の演奏の中でも、スコアに記された音符が最も精緻に再現された演奏といっていいのかもしれません。そうしたところにもエマールは師匠のブーレーズに近い音楽家であることが窺えます。従来なかったような個性的な演奏をこのピアニストに期待していたこと自体が、いかに見当違いだったことか。

CDにおけるベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏では百人百様ともいえるようにそれぞれのピアニストが個性的な演奏を聴かせていますが、それ故に何もしていないエマールの演奏は目から鱗が落ちるように新鮮に聴こえました。それにしても、ラヴェルの協奏曲だったら、CDで数多くの同曲異演を聴いてきた者としては、例えそれがないものねだりであるにせよ、エマールというピアニスト側からも、もう少し個性的な発言を聴いてみたかったというのも正直なところです。

CDだけではその演奏の意味を理解しかねていたエマールのこの曲の演奏ですが、映像による実演を見たことで、その演奏ともども一人のピアニストへの理解がさらに深められたことは良かったと思います。

余談ながら、この曲の第3楽章展開部の冒頭でチェロのピチカートにハープの左手の低音がユニゾンで重なって、リズム音型によるサブテーマの一つを聴かせる箇所がありますが、ここは生でもCDの録音でも、スコアに書いてあるようには実際には聴こえません。CDの再生音でここがはっきりと聴こえるのは、唯一バーンスタインが弾き振りしているCBSによるステレオ最初期の録音だけです。この録音では何とチェロよりさらに聴こえにくいハープまでもが聴こえます!! この放送の録画では、ここでチェロがピチカートを奏するのをしっかりとアップで見せていましたが、テレビ内蔵のスピーカーレベルでは、やはり実際の音としてはほとんど聴き取れませんでした。

デュトワ~N響の伴奏はCDでのブーレーズ~クリーヴランドの伴奏同様、これまた的確かつ精妙ないい演奏でした。我が家の音楽鑑賞のメインはCDで、未だにAV化には踏み切っていないので、録画した音楽番組はテレビ内蔵のスピーカーでしか再生できません。それもあって、HDに録画した番組は長期間見ないでそのままになっている場合が多々あります。この録画に併録されているショスタコーヴィチの第8交響曲も、残念ながらまだ再生していません。



BSのフランチェスコ・メーリ、テナー・リサイタル [クラシック演奏会]

NHK・BSで放映されたフランチェスコ・メーリのテナー・リサイタルを聴きました。フランチェスコ・メーリは初めて聞く名前ですが、1980年生まれのイタリアの新人テノールです。

クラシックファンは、音楽を映像と音声で楽しむAV派と、CDで音声だけを楽しむCD派にはっきりと二分されるようです(稀に両者を楽しむ人もいるようですが)。私は典型的な後者で、LP時代からレコーディングに残された演奏により音だけで音楽を楽しんで育ってきた世代です。

この度、地デジ化を機に液晶テレビに買い換え、新たにBSも見られるようになり、苦手なライヴ演奏を早速、録画してみました。AVライヴが苦手な上に、未知のものは大の食わず嫌いで、新人には滅多に手を出さない私としては、地デジ化という機会がなければ全く無視してしまったライヴです。

このテノール・リサイタルも全く期待していなかったのですが、予想に反し、これが耳から鱗の思いがけないうれしい拾いもので、久しぶりにいい新人と巡り会えることになりました。


IMG_2078A.jpg

メーリはそのレパートリーと声質からいってリリコとリリコ・スピントの中間ぐらいのリリック・テナーになるのでしょうか。とにかく真っ直ぐでブリリアントな、きれいな声です。その澄んだリリカルな美声は十分スピントな強靱さも併せ持っているので、そのうちさらにドラマチックな太さを増して三大テナーの後を継ぐプリモ・テナーへと登りつめそうな気配が感じられます。

けれどもこういうリリック・テナーの美声が聴けるのは、その歌手の声質がまだリリカルで、必要以上にドラマチックにならない若い頃の、ほんの一時期だけと言えそうです。メーリの声はリリック・テナーとして今、その一番きれいな時期と言えるのかもしれません。

「フェデリコの嘆き」はさらに悲痛に、「人知れぬ涙」はもう少し甘く、「星は光りぬ」はさらにドラマチックにと、これでもかと言わんばかりの名テナーによるグラマラスな歌唱を聴き慣れた耳には、その表現はまだ青く物足りないところがあります。けれどもそのストレートな歌唱には、ベテラン歌手の厚化粧の歌唱からは聴かれない、若者ならではの初々しい潔さが感じられます。

なお、何とアンコール(?)でセレーナ・ガンベローニというソプラノが登場し、「ラクメ」からの二重唱を披露。これもガンベローニ共々、素敵な歌唱でした。また、浅野菜生子さんのピアノ伴奏は、ふっくらしたきれいな音で、ドラマチックな力強さも十分。オーケストラ伴奏ではない物足りなさを感じさせないいいピアノでした。

どうやら、やはり食わず嫌いの偏見は禁物のようです。ポスト三大テナーとも言うべき声と才能を持った新人が、知らないうちに現れていたようです。これを機に苦手なAVライヴにも音楽を聴く楽しみを広げてみることにしましょうか。

ファジル・サイのリサイタル第2夜 [クラシック演奏会]

ファジル・サイのピアノリサイタルを先々週に続いて、早くも2夜目を聴きに行きました。一度の来日時に2回続けて通ったアーチストはサイが初めてです。

say.jpg前回のプログラムの目玉は『展覧会の絵』でしたが、今回のプログラムは前半がバッハ、後半がラヴェルとプロコフィエフのソナタを中心に据えた意欲的なものです。

前半のバッハはブゾーニ編のシャコンヌ、自身の編曲の大フーガ(幻想曲とフーガ ト短調)、フランス組曲第6番、さらにパッサカリアが続くという超ヘビーなプログラム。パッサカリアは当日、急遽ヤナーチェクのピアノソナタ『1905年10月1日』という、これまた決して軽いとはいえない曲に替えられました。

バッハのシャコンヌはこれで生で聴くのも3回目、大フーガも今回の来日ですでに聴いていました。共にバッハの他の楽器のための作品が、ピアノという別のキーボード用に完璧に変換された演奏。フランス組曲もこれでサイの生で聴くのも2回目ですが、チェンバロからピアノへと見事に復元し直されているので、まるでバッハの管弦楽組曲のピアノ編曲を聴いているかのよう。

急遽差し替えられたヤナーチェクのピアノソナタは初めて聴く曲。サイが取り上げたのが納得できる、剛毅なピアニズムで覆い尽くされた2楽章の厳しいソナタ。

後半はスカルラッティのソナタ3曲から始まりました。サイのスカルラッティは是非聴いてみたかったので、思いのほか願いが早く実現されました。結果はチェンバロでは決して表現できないピアノならではのキーボード音楽に見事に変換された、予想通りの理想的なスカルラッティ。ふとホロヴィッツのスカルラッティを思い出させられました。

続いてラヴェルのソナチネ。サイのラヴェルもこれが初めてですが、この古典的な曲をサイが弾くと、曲のシンプルな構造がさらにむき出しになるのではと思っていました。ところが、ラヴェルもサイ流に見事にラヴェリッシュなピアノの音への変換が試みられていました。結果、曲の古典性よりもむしろラヴェルの音色へのこだわりを強く印象づけられる演奏になっていました。古典的な外観は巧緻な書法を覆い隠すためのカモフラージュでしかないことがサイの演奏からはよくわかりました。

プログラムの最後はお目当てのプロコフィエフの第7ソナタ。ピアノの打楽器的な側面を極限まで追求したこのソナタがサイに向かないわけはありません。サイとしても是非弾いてみたかった曲だったのでしょう。満を持しての登場です。

1楽章の2つのテーマ間の静と動、明と暗の強いコントラスト、2楽章の遠く近くに鳴り響く鐘の音の遠近感、3楽章プレチピタートの人間業を超えたかとも思われるピアノを壊さんばかりのもの凄い打鍵。しかもラヴェルがラヴェルであったように、プロコフィエフでもそこかしこにプロコフィエフ特有の匂いが感じられ、はっとさせられます。予想を遙かに超え、この曲をサイがここまで面白く聴かせてくれるとは。

実はサイのリサイタルは先に聴いたばかりなので、この2回目に足を運ぶことに若干躊躇がありました。けれどもここまで良い方向に予想を覆されれば、やはり来てよかってという大きな満足感が残りました。これだから、サイからは目が離せない!!

アンコールは、何と今回の来日の新レパートリーの『展覧会の絵』の最後の3曲。プロコフィエフのソナタの2楽章から続いて、鐘の音を響かせる曲が奇しくも並ぶことになりました。前回サイの「展覧会」を聴いた時は、正直なところラヴェルのオーケストラ版の焼き直しみたいに聴こえましたが(確かにサイの演奏ではそういう一面もあるのですが)、こうしてプロコフィエフの後にムソルグスキーを聴かされるとロシアンピアニズムの系譜が、ムソルグスキーからプロコフィエフへと継承されていることに気づかされました。ムソルグスキーの原曲も、一つの独立した立派なピアノ曲だったことがわかりました。そう言えばスカルラッティもそうですが、ムソルグスキー、プロコフィエフも共に、あのホロヴィッツが取り上げていた曲です。

この日のサイのアンコールは、さらにお馴染みのいつもアンコールで披露されるプリペアードを取り入れた自作、そして何とベートーヴェンのテンペストソナタのフィナーレの3楽章と続き、夜の7時に始まったコンサートは10時近くにまでに及びました。

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ファジル・サイの展覧会の絵-来日コンサートから [クラシック演奏会]

トルコのピアニスト、ファジル・サイの来日公演を聴きました。調布の「くすのきホール」という初めて訪れた比較的こじんまりとしたホールで開催されました。このホールは2階はないのですが、幸い私の好きな高い位置にある後部席が確保でき、ホールの響きを堪能することができました。

サイの公演は昨年の7月に聴いたばかりですので、まだ1年ほどしか経っていません。今回の演目の目玉はムソルグスキーの『展覧会の絵』ですが、サイの展覧会が聴きたくて再び生のコンサートに足を運ぶことになりました。

サイC.jpg プログラムの前半はサイ自身の編曲によるバッハの『幻想曲とフーガ』ト短調(大フーガ)と、前回も取り上げられたベートーヴェンの『テンペスト』ソナタでした。まず、バッハが始まった途端、幾度か生を聴いているのですが、その聴き慣れたサイの生のピアノの音の美しさに改めて感心させられました。

サイのピアノの音の美しさは、既成のクラシックのピアニストのタッチからは聴くことのできない、純粋なキーボード音楽としてのタッチの美しさにあります。クラシックのピアニストではグルダを思い出させますが、グルダ同様、ジャズとクラシックとの間を行き来しているキース・ジャレットに、サイはより近いピアニストかもしれません。クラシックのピアノのタッチに捉われないこの人たちのピアニズムからは、皆共通してピアノ本来の音が持つピュアな響きの美しさを聴くことができます。

サイは立派な体躯に恵まれており、コンサートグランドから引き出される強靱なフォルティッシモの威力は凄まじいものがある一方、普通の強さの音でも決して音が痩せることがありません。こうした音で弾かれた一晩のコンサートは、全篇がまさに「耳のご馳走」です。その美音にたっぷりと浸ることで、この上ない満足感を与えられました。

サイの美音はバッハに顕著に聴かれましたが、ベートーヴェンの『テンペスト』は、現役のピアニストの中でも随一とも言える強靱なメカニックで弾ききられていました。私は、サイのベートーヴェンはあまり高く評価していませんが、今回はこの厳しく鍛え上げられた強靱なメカニックの魅力には圧倒されました。

さて、プログラムの後半は聴きものの『展覧会の絵』です。サイの演奏でこの曲を聴くと、ムソルグスキーのピアノ曲の原曲の方がラヴェルのオーケストラ版の編曲のように聴こえます。一曲一曲が見事なキーボードミュージックに変換されていて、スリリングに展開されていきます。

サイにはプリペアード奏法も加えたストラヴィンスキーの『春の祭典』の多重録音盤があります。生のサイのこの曲の演奏では全曲中の一箇所「第3プロムナード」の終わりの3音だけ、わずかにプリペアード奏法を加えていました。この曲も多重録音の方がさらに面白くなるのでは、といった思いもチラッと頭をかすめましたが、一台のピアノによる生の演奏としても、一つのエンターテイメントとして、これはこれで十分な満足感が得られました。

現在のサイはキーボードの求道者といった趣があります。自分が取り上げる曲をキーボードに変換するのが面白くてしょうがないといった奏者の表現意欲が聴き手側にも伝わります。こうした現在のサイを聴けるのは幸せな体験ですが、そこに人間性の陰影が刻み込まれるようになるのは、まだ先のことかもしれません。今回の来日では、サイの追っかけになってしまい、この後の別のプログラムによるソロ・リサイタルのチケットもすでに入手しています。

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