SSブログ

ミケランジェリ~ラヴェル、ラフマニノフ ピアノ協奏曲のSACD [クラシックCD]

ミケランジェリがステレオ最初期に残した2曲の協奏曲の録音がSACDになりました。ラヴェルとラフマニノフの協奏曲2曲で、ラヴェルは両手用の方、ラフマニノフは2番、3番ではなく、虚をついた4番という選曲です。

その凍りついたかのように冷徹な静けさの中に閉じ込められた演奏の世界、そしてそれを現実の音として可能にしていく真綿でくるまれたかのような特殊なピアノの音、このSACDを聴いて、ミケランジェリというピアニストの独自性があらためて認識させられました。

1957年という最初期のステレオ録音ながら、当時の録音レベルを遥かに超えた優秀録音で、ベルベットのような独特の滑り感のあるミケランジェリの特殊なピアノの音が55年も前の録音に、ここまで捉えられていたというのは、むしろ奇跡的です。それがSACDでは一層瑞々しく蘇るようになりました。さすがにラヴェルの協奏曲のオーケストレーションの巧緻なディテールなど、最新録音と比べると聴こえないパートもあるのですが、バックに広がるオケのトータルの空気感は当時の録音水準を超えた瑞々しさで再現されます。




ラヴェル:ピアノ協奏曲 ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番

ラヴェル:ピアノ協奏曲 ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番

  • アーティスト: ミケランジェリ(アルトゥーロ・ベネデッティ),ラヴェル,ラフマニノフ,グラチス(エットレ),フィルハーモニア管弦楽団
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2012/11/28
  • メディア: CD



さて、久しぶりに聴いたミケランジェリですが、意外にも本命のラヴェルよりもラフマニノフに今回はより強い感銘を受けました。

ラフマニノフ最後のピアノ協奏曲になった第4番は、2番と3番で頂点を極めてしまった後に書かれた作品だけに、豪華絢爛なピアノのヴィルトゥオーゾの手法に華麗なオーケストラが絡まるというラフマニノフ特有のルーティンワークの手法に終始し、この曲ならではの新たな創造が試みられているわけではありません。2番、3番に比べても曲への評価は低く、単独に取り上げられることはほとんどない作品です。ラフマニノフの全協奏曲中最も演奏時間は短いだけに、却ってラフマニノフ本来の持ち味は濃厚に凝縮されていて、全篇、これケレンだけでまとめられたといっても過言ではないような曲に仕上がっています。ラフマニノフ自身はより饒舌な書法を改訂して、ここまで切り詰めたということですが。

こういうある種ゲテ物的な曲だからこそ、皮肉にもそこにミケランジェリの本領が発揮されるのです。通常のピアニストがこの曲を弾くと、曲想の空しさだけが印象付けられて水っぽく聴こえるだけなのですが、ミケランジェリは持前の非人間的な突き放した冷徹さによって、ゲテ物ならでは妖しい魅力を薄気味悪くなるほどリアルに再現しています。ミケランジェリの手にかかると、曲の空虚さがリアルな白日夢のように生々しさを伴って蘇り、そこにはこの世のものとは思えないような非現実的な華麗な哀愁の世界が拡がります。

ミケランジェリが2番、 3番ではなく敢えてこの曲を取り上げた理由が、私にはわかるような気がします。膨大な数のレコード史の中で、このようなユニークな演奏に巡り合えたことはたいへん幸せなことだと思います。

一方ラヴェルの両手用の協奏曲は、同じ作曲者によるシリアスな左手用の協奏曲とは対照的に、既存のピアノ協奏曲のパロディーとして書かれたかのような喜遊的な作品です。パロディーとしてのこの協奏曲を弾く上で、ミケランジェリの醒めた眼差しがふさわしくないはずはありません。

私は幸運にも、生前のミケランジェリによるこの曲の生の演奏を聴いていますが、完璧主義者のミケランジェリの演奏はレコーディングと生とではほとんど変わりません。ミケランジェリの弟子でもあったアルゲリッチは師を評して「完璧を求めるということは、いつでも同じでしかないということです」と語っているのも、即興的な閃きを得意とするアルゲリッチならではの見方としてわかるような気がします。実際、アルゲリッチや古くはミケランジェリと同世代のフランソワ、新しくはグリモーといったピアニスト達による、より自由で奔放なこの曲の演奏を聴いた後では、ミケランジェリの完璧に完成されたこの曲の演奏は、随分と古典的で遊びの少ない演奏に聴こえます。それでも他のピアニストにはないミケランジェリだけの研ぎ澄まされた完璧な表現が、この曲にある種の凄みとして働いていることに変わりはありません。

 
ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番

ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)
  • 発売日: 2008/10/22
  • メディア: CD



このラヴェルとラフマニノフの協奏曲の録音はレギュラー盤でも、十分今でも通用する優秀な音質で味わえるだけに、この演奏を聴いたことのない方には、是非ご一聴をお勧めします。若い人たちがミケランジェリの演奏を聴いたら、いったいどういう反応をするのでしょうか。表面上の身ぶりが極限まで抑えられたミケランジェリの静的な演奏に対して、何もしていないじゃないかと思うのか、それとも、その閉じられた密室の世界に現今のピアニストにはない妖しい魅力を感じるのでしょうか?

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番、ラヴェル:ピアノ協奏曲 ミケランジェリ、グラチス&フィルハーモニア管(シングルレイヤー)(限定盤)
icon


Piano Concerto, 4, : Michelangeli(P) Gracis / Po +ravel: Concerto
icon

クレンペラー マーラー交響曲第4番のSACD [クラシックCD]

クレンペラーのマーラー交響曲第4番のSACDを聴きました。EMIは往年の名演のSACD化が、今やっと始まったところですが、先に出ていたハイブリッド仕様によるSACD名盤シリーズにはこの録音は入っておらず、今ようやくシングルレイヤー仕様のSACDで発売されました。3,980円と高価ですが、その昔の輸入盤のLPの価格はこれぐらいしていたこともあったかもしれません。ただし、限定盤という触れ込みで高価な割には、パッケージはレギュラー盤と同じ標準仕様のプラケースなので、もう少し価格相応のゴージャスさが欲しいところです。

ジャケットはオリジナルを尊重しているらしく、昔、アメリカエンジェル盤のLPで親しんだ絵柄が使われています。国内盤はEMIが東芝になってからはLP~CD時代を通してこのジャケットは使われていなかったはずで、こうして蘇ったのを見ると懐かしさがヒトシオです。


マーラー:交響曲第4番

マーラー:交響曲第4番

  • アーティスト: クレンペラー(オットー),マーラー,フィルハーモニア管弦楽団
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2012/11/28
  • メディア: CD



波が打ち寄せる曇り空の岸辺に佇む一人の人物。この岸辺は海でこの世と隔てられた彼岸なのでしょうか。LPを聴く度に、このジャケットの絵柄のイメージが無意識に刻み込まれたせいか、私はこの曲を密かに「彼岸交響曲」と呼んでいました。子供の不思議な角笛から引用された、この曲に表現されている天国の情景は、私にはなぜか天国というよりは薄明の中の彼岸というイメージでとらえていましたが、それはこのジャケットの絵柄が関係していたのかもしれません。

この曲を初めて知ったのもクレンペラーによる、このアメリカエンジェル盤のLPでした。その後、敬愛する宇野功芳氏が絶賛するバーンスタイン~ニューヨークフィル盤も聴くようになり、インテンポのクレンペラーとは対照的に大きくテンポが変動するバーンスタインの演奏にすっかり魅せられてしまいました。正直、バーンスタインを先に聴いていたら、クレンペラーの演奏はつまらない演奏と片付けてしまっていたかもしれませんが、幸い、先に聴いたのがクレンペラーで良かったと思っています。

身振りが大きく濃厚なバーンスタインの演奏が天国に遊ぶ子供の世界のざわめきを思わせるとすれば、インテンポで動きの少ないクレンペラーの演奏は、まさに「天国というよりは彼岸」における薄明の中の静謐な世界を体験させてくれます。その魅力を知ってしまった以上、その静かな彼岸の世界にいつまでも浸っていたいと思わせられます。

クレンペラーの演奏時間は全曲が55分ほどと標準的なものですが、緩徐楽章の第三楽章が他の指揮者より速いせいで全曲がこの時間で収まったものであり、全体は他の指揮者と比べてもかなり遅めに聴こえます。特に第一楽章などインテンポでテンポが動かないせいもあり、他の指揮者に比べて最も遅く聴こえる演奏かもしれません。

このクレンペラー盤のフィナーレの歌唱にはシュワルツコップが起用されていますが、その歌唱はクレンペラーが作り出す彼岸の世界の中に見事に溶け込んでいます。宇野功芳氏がケルビンのようと評したバーンスタイン盤のレリ・グリストもチャーミングですが、この曲の歌唱で、夕映えのような火照りを感じさせてくれるのは、唯一このシュワルツコップだけです。

さて、最後になりましたが、待望のSACD化の出来栄えや如何に!?

ウ~ン、評価は微妙です。今回のEMIによるSACD化はそのほとんどが、驚異的な音質改善効果を聴かせてくれています。ただ、オイストラッフのブラームスのヴァイオリン協奏曲のように、残念ながら原録音の歪(EMI特有の録音のクセの一種なのでしょうが)が露わになってしまったものもあります。

このマーラーはやはり見事な改善効果を聴かせてくれます。この録音は元々EMIには珍しいほどの五体満足のバランス感覚の良い優秀録音であり、この曲の至る所で登場する第一と第二ヴァイオリンのかけあいが、クレンペラー~フィルハーモニア管特有の対抗配置により効果的に聴こえるのも、この録音のメリットの一つです。左手中央奥に置かれたコントラバスの弾みのある低音の効果も見事に効いています。この録音のHQCD化では何故か、我が家のスピーカーではハイ上がりのバランスで聴こえるようになってしまいましたが、今回のSACD化により元来のバランスを保ったまま、さらにより良く再現されるようになりました。控え目ながらも取り入れられたホールトーンも、このSACDで初めて効果的に聴こえるようになりました。元録音がデジタル録音ではなく、良質なアナログ録音であるというメリットがDSD~SACD化により、より良く発揮された一例といえるかもしれません。

でも、なおかつ評価は微妙、と書いたのは、私には長年親しんだLPのこの曲の演奏のふくよかなサウンドが耳の奥に残ってしまっていて、SACDの音はそれを超えるものではないと思えてしまうからです。もちろんマスターテープの音にはLPよりもSACDの方が忠実なはずであり、LPのサウンドキャラクターをSACDに求めること自体がお門違いなのですが。同じような不満はオイストラッフのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のSACDにも感じられたことです。SACDでも、もはやLPとは別次元の音として満足させられる場合もあるのですが、この録音のように、一部でなおかつ昔のLPの音が懐かしく思い出されてしまう場合があるのは、むしろ残念なことなのですが。


交響曲第4番 クレンペラー&フィルハーモニア管、シュヴァルツコップ(シングルレイヤー)(限定盤)
icon



ヘブラーのモーツァルト ピアノ協奏曲の旧録音 [クラシックCD]

ヘブラーによるモーツァルトのピアノ協奏曲旧録音がタワーレコードのオリジナル企画からリリースされました。ヘブラーのモーツァルトのピアノ協奏曲は、ロヴィッキとガリエラという指揮者の伴奏(一部デイヴィス)で後年録り直された全集の方がCD化されていますが、それ以前に別の指揮者で数曲単発で録音された旧録は現在現役盤がなく、CD化されたのは貴重です。

今回のCD化はLP3枚分がオリジナル通りに3枚のCDに収録されています。内2枚がステレオ録音で、1枚目が61年録音の19番と26番「戴冠式」でデイヴィス~ロンドン響、2枚目が59年録音の27番、18番でドホナーニ~ウィーン響の伴奏で、共に同じ曲の後年の再録よりも強力な指揮者が迎えられているのもうれしいところです。

もう1枚は60年のモノラル録音で、ゴールドベルク~オランダ室内管の伴奏で12番と12番のフィナーレの別ヴァージョンのイ長調のコンサートロンド、ハイドンのニ長調協奏曲が収録されています。ハイドンの協奏曲はステレオによる初CD化と表記されていて、他のモノラル収録曲とはハイ上がりな音質も異なっているのですが、ステレオプレゼンスは感じられるものの、左右に分かれたステレオ録音ではないようです。

モーツァルト ピアノ協奏曲第12番、18番、19番、26番「戴冠式」、27番他 ヘブラー(p)、デイヴィス~ロンドン響、ドホナーニ~ウィーン響・他







ヘブラーのモーツァルトは密閉されたフラスコの中で丁寧に醸成されたブランデーのような趣きがあり、それは今回の録音に聴く若い時から生涯変わっていません。私は2001年の来日に際し、生のヘブラーに接しましたが、レコードに聴くそのまま等身大のヘブラーの実像に逆に驚かされました。こんなにレコーディングと生の印象が変わらないピアニストはあまり他に類例がないかもしれません。それぐらいヘブラーのモーツァルトは、これ以上ないほどに精緻に作り込まれたものです。

ヘブラーの作り込まれたモーツァルトは予定調和の世界であり、ハスキルのような詩情やリリー・クラウスのような閃きには欠けるところがあると、高く評価しない人もいるかもしれません。それでも私にはある意味では虚無的なほどに禁欲的なヘブラーの演奏は、ヘブラーだけの閉じられた世界ならではの魅力が感じられます。こうした手工芸品のようなモーツァルトがこの世に存在したことは、たいへん幸せなことだと思います。

現在に至るまでほとんど変わっていないと思っていたヘブラーですが、この旧録に聴く若き日の演奏からは、後年の演奏にはないフレッシュな柔軟さと瑞々しさが感じられたのは、むしろ予想外のことでした。

今回のどの曲もヘブラーの演奏自体は均質な出来なのですが、私はあらためてモーツァルト最後のピアノ協奏曲27番の演奏に惹かれました。この27番のヘブラーの旧録は記憶が定かではないのですが、かつて宇野功芳氏が絶賛していた演奏のはずで、私も昔CDを持っていましたが、なぜか今は手元になく、今回の再発は望外の喜びです。そして今あらためて聴いてみると、昔聴いたこの演奏のユニークな美質が本物であったことをうれしく感じました。

この演奏ではヘブラーの虚無的に感じられるほどのピュアなタッチが、期せずしてこの曲のモーツァルト晩年の不思議な蒼白い天国的な諦観に結びついています。他のピアニストによるこの曲の演奏はどうしても奏者側の思い入れが少なからず混入してしまうので、音楽がもう少し地上に降りて来てしまいます。ヘブラーのように、この曲を天国的な虚無感を漂わせながら弾いたピアニストでは他には唯一カーゾンだけが思い浮かびます。ただしカーゾンはヘブラーに比べれば、その虚無的な表情は随分と意識的に作られたものですが。

ここでヘブラーにつきあっているドホナーニはこの録音当時まだ無名の新人指揮者だったはずです。このドホナーニの指揮が、一見一筆書きのような無造作な音作りながら、その作為のなさがヘブラーのピュアなタッチには意外にもよくマッチしています。ヘブラーとドホナーニの思いがけないコンビの妙が聴けるのは、新録にはないこの旧録ならではの特典です。

この曲は第一楽章の提示部と再現部の終わりのソロ部分にスケールで置き換えることを前提とした長い全音音符だけで書かれた箇所があります(同じような譜面上でのスケールの省略は24番の協奏曲にも見られます)。59年頃というと、それをまだその全音符のまま弾いているピアニストの録音は結構多いのですが、ヘブラーは当時すでにここをスケールに置き換えて弾いています。これを初めて聴いた時は、その半音階のスケールがヘブラーの蒼白い表情をさらに強調しているかのように聴こえたものです。

ヘブラーを初めて聴いて以来、現在のモーツァルトのピアノ協奏曲を弾くピアニストの演奏は随分様変わりしました。大きく変わったのは繰り返しに際しエンベリッシュメントを加えるのが普通になったことです。それに慣れてしまった耳には、緩徐楽章においても何の装飾も加えないヘブラーの演奏には少々違和感を覚えるほどです。にもかかわらず、久しぶりに聴いたヘブラーの旧録のモーツァルトは新鮮でした。こういうすっきりとしていながら味わいの深い一昔前の演奏には、奏者のマニエリスムが強く表面に出されるようになった現在の演奏にはない新鮮さが感じられます。

Ingrid Haebler/モーツァルト: ピアノ協奏曲集(旧録音), 他<タワーレコード限定> [PROC-1215]

ファジル・サイの「展覧会の絵」 [クラシックCD]

2008年のファジル・サイの来日に際しては、おっかけよろしく二晩のコンサートに出かけました。その折の公演曲が2012年の今頃になってようやくCDになりました。二晩に分かれていたプログラムの中からムソルグスキーの「展覧会の絵」、ヤナーチェクのピアノソナタ、プロコフィエフのピアノソナタ第7番が一枚にまとめられた選曲です。

輸入盤は同じプログラムが丸々収録されたコンサートのDVDがオマケについています。国内盤はDVDは別売になっていますが、輸入盤はDVD付きで国内盤一枚以下の価格です。どちらを選ぶかは日本語解説が付くか付かないかのニーズの違いによると思われますが、私は輸入盤で購入しました。私はAV派ではないので、もちろんお目当ては音楽のみのCDの方ですが。


展覧会の絵

展覧会の絵

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: avex CLASSICS
  • 発売日: 2012/06/20
  • メディア: CD


ポスト・グールドの世代に属するサイのタッチはクラシックの伝統的なピアニストとは異なる独特のものなので、ピアニストというよりはキーボード奏者としての面影が強く感じられます。CDのジャケットでお馴染みの童顔からは想像のつかない巨体の持ち主であり、その巨体から繰り出される剛毅なピアノの打鍵は凄まじい威力に満ちたものです。その一方でモーツァルトではあれほどピュアできれいな音も出せるのです。

こうしたサイの伝統的な奏法から外れた剛毅な打鍵でキーボード曲として弾きこまれた「展覧会の絵」が面白くないわけはありません。この曲はラヴェルに対してオーケストラ編曲を刺激したのも頷けるように、ムソルグスキーの原曲自体がオーケストラへのスケッチみたいなところがあります。そうした曲をサイは完結したキーボード曲として見事に再構築しています。それは耳の御馳走とも言うべき、一つのエンターテイメントとしての楽しみを伝えてくれるものです。実演同様に第三プロムナードの最後の三音はプリペアードで弾かれているのもお楽しみの一つです。

併録のヤナーチェクのソナタの静寂に包まれた哀感と怒りの表現の深さも申し分ないものだし、プロコフィエフのソナタの打楽器的連打の凄まじさも現状のピアニストでサイに敵う者はいないかもしれません。

ということで、このCDはコンサートの際の印象がそのまま蘇った期待通りのものでした。

さて、この後「展覧会の絵」をポゴレリッチで聴き直してみました。ポゴレリッチのこの曲の演奏は細部のデフォルメも辞さない、ある意味イビツな表現主義的演奏で、それがムソルグスキーのこの曲のグロテスクな一面を深く抉り出しています。しかもキーボード曲としてこの曲を再現したサイとは異なり、ポゴレリッチの行き方はあくまでピアノ曲としての表現の中で突き詰められたものであり、この曲はスケッチではなく完結したピアノ曲であることを改めて認識させてくれます。ポゴレリッチのこの曲の演奏がピアノ曲として完結したものであるというのは、実は今まで気づかなかったことです。ポゴレリッチを聴くと、サイのこの曲の演奏はピアノではなくシンセサイザーでも良かったのではと、ふと思ってしまいました。そう思わせるのも、ポゴレリッチとは異なるサイのこの曲のユニークな演奏の賜物なのかもしれませんが。

ムソルグスキー:展覧会の絵、プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番、ヤナーチェク:『街頭にて』 ファジル・サイ(+DVD)
icon

『展覧会の絵』、ほか ファジル・サイ
icon

クナッパーツブッシュ「ウィーンの休日」の板起し [クラシックCD]

クナッパーツブッシュ~ウィーンフィルによる英デッカへのステレオ録音に「ウィーンの休日」と題してウインナ・ワルツやポルカを中心にアンコールピースで組まれた一枚がありました。この中の一曲、コムザークのワルツ「バーデン娘」など、宇野功芳氏をして「悪魔の哄笑」と言わしめたように、クナッパーツブッシュならではの桁外れの名人芸が聴ける一枚でした。私は「アンネン・ポルカ」冒頭のテーマの、あの気が遠くなるように超絶的なポルタメントを交えたアーティキュレーションとアゴーギグのうまさに痺れたものでした。この一枚は昔キングから出ていたCDを所有していましたが、今は手元になく、現役盤も単独では入手できない状況です。

クナッパーツブッシュ~ウィーンフィルではもう一枚「ポピュラー・コンサート」と題して、「舞踏への勧誘」や「くるみ割り人形」組曲などで構成されたポピュラーな名曲を集めたステレオ録音があります。そちらの方は「ウィーンの休日」とは異なり、度々復刻されてきました。ところが「ウィーンの休日」の方は英国本国はおろか、往年の英デッカレーベルのほとんどを復刻しているオーストラリアのエロクアンスレーベルからも、何故か未だに復刻されていません。数年前、日本でクナッパーツブッシュの英デッカ録音がSHM-CD仕様で全集化された際には含まれていたようですが、残念ながらこのセットには手が届かなかった私にとっては、単独でのCDの再発が待望されるところです。

そんな折、往年のLPからの復刻をリリースしているスイスのギルド・レーベルから「ウィーンの休日」の一部が復刻されました。この一枚は板起しと呼ばれるLPからの復刻で、復刻者としてピーター・レイノルズの名前が記載されています。この復刻は「ポピュラー・コンサート」が中心で「ウィーンの休日」からは数曲がオマケのようにフィルアップされています。「ポピュラー・コンサート」はマスターテープからの復刻盤で所有しているので、肝心の「ウィーンの休日」の方を一枚に復刻してもらいたかったところなのですが。

クナ.jpg『ポピュラー・コンサート』 クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル(レイノルズ復刻)icon          
「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「くるみ割リ人形」組曲、「舞踏への勧誘」、「軍隊行進曲」、「バーデン娘」、「アンネン・ポルカ」、「ウィーンの森の物語」、「ラデツキー行進曲」






「ポピュラー・コンサート」からの収録曲は手持ちのマスターテープからの復刻盤と比較できるので、その比較が興味深いところです。結果はこのLPからの復刻の音は中域は厚く、高域は丸く聴こえるので、同じ曲でもマスターテープからの復刻とはまるで別の録音のように聴こえますが、これはこれで聴きやすい音です。ステレオ最初期の57年録音の「ウィーンの休日」は当時の英デッカらしいハイ上がりの音質でしたが、60年録音の「ポピュラー・コンサート」の方はわずか3年違いなのに、帯域バランスは見違えるように現在の水準に近く改善が見られます。「ポピュラー・コンサート」に関しては、元来がまともなバランスの録音だっただけに、やはりマスターテープからの復刻の方に一日の長があるようです。ただ、「ウィーンの休日」は数曲だけであっても、他に単独のCDがないので貴重です。

「ウィーンの休日」には実はそれだけで板起ししたLPからの復刻CDが別にあります。平林直哉氏復刻のグランド・スラム盤ですが、残念ながらこちらは早、現在は廃盤のようです。

クナ2.jpgクナッパーツブッシュ~ウィーンフィル ウィーンの休日










同じLPからの板起こしといっても、「ウィーンの休日」からの同じ曲をギルド盤と比較してみると全く違った音がしているのに驚かされます。アナログLPはそれを再生するピックアップのカートリッジによっても音質が変わってしまうわけですから、復刻にあたっても、どういうカートリッジを使用するかで音質はガラッと変わってしまうのかもしれません。

グランド・スラム盤はギルド盤よりハイ上がりの音質なのですが、こちらの方がLPらしい音に聴こえます。ステレオ最初期57年頃の英デッカの録音は現在の水準で聴くと、イコライザーの設定を間違えたかと思われるようなハイ上がりで中域が薄いシャカシャカした音に聴こえます。CDではその傾向がさらに強調されて聴こえるのですが、アナログのLPで聴くと、そのしゃくれ上がった高域が、また得も言われぬ独特のデッカサウンドの味わいとして聴こえます。LPから板起こししたグランド・スラムの復刻は見事にその音を捉えていて、懐かしくなります。LP盤の針音もしっかり再生されます。

このグランド・スラム盤とギルド盤を比べると、ギルド盤は針音も除去されており、LP盤というよりはオープンリールのミュージックテープから復刻されたかのように聴こえます。それだけにグランド・スラム盤より中域が厚く、高弦はより滑らかに聴こえるので、別の復刻盤としての存在意義は認められるのですが。

グランド・スラム盤では一部の曲のみ当時のモノラルLPからの同じ曲が比較できるようになっています。この57年録音の水準ではLPであれば、音が集中して聴こえるモノラルの方に分があるのかもしれませんが、CDで聴く限りは、一概にステレオよりモノラルの方が勝るともいえないところが微妙です。

グランド・スラム盤は昔懐かしいLPのデッカサウンドが聴けるので、「ウィーンの休日」をCDで聴く上ではそれも大いなる楽しみなのですが、欲を言えば今一度マスターテープから起したCDでも聴いてみたいものです。それもDSDリマスタリングで。

『ポピュラー・コンサート』 クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル(レイノルズ復刻)
icon

続きを読む


ラトル「カルメン」のSACD [クラシックCD]

ラトルがベルリンフィルと「カルメン」を録音しました。私にとってはSACDで聴く初めてのオペラになりました。例により輸入盤は国内盤の半分ほどの価格ですが、レギュラーCD仕様の輸入盤に対して国内盤はSACD仕様(ハイブリッド)で、しかもDVD(約1時間の抜粋版)のオマケ付ということなので、今回は国内盤で購入してみました。これで国内盤は5,000円弱という価格なのでSACD2枚としてもむしろサービス価格です。

ラトルのカルメンはアルコーア版に従ったオペラコミーク仕様ですが、ほとんどの台詞はカットされ実質音楽部分のみなので、結果的にはグランドオペラ版と大差はないということになります。このレコーディングはベルリンフィルとの演奏会形式による公演を録音したものなので、付録のDVDを見ていると、コンサート形式によるその上演の様子がよくわかります。極く少数残された台詞は声優ではなく歌手が自分の役を担当しているのもDVDで見るとよくわかります。児童合唱はステージ左端に陣取られているのは録音も一緒で、通常の録音とは異なり行進でも動き回りません。


ビゼー:歌劇「カルメン」全曲

ビゼー:歌劇「カルメン」全曲

  • アーティスト: ラトル(サイモン),ビゼー
  • 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
  • 発売日: 2012/08/22
  • メディア: CD


さてDVDを先に見て、高鳴る期待のもとSACDを視聴してみました。

ほぼ音楽部分のみでまとめられたこの演奏は譜面上はグランドオペラ版と大差ないと先に書きましたが、ラトルはわざわざオペラコミーク版を選んだだけあって、その演奏はあきらかにオペラコミーク版ならではの小回りの効いた軽快さが生かされたものになっています。前奏曲からすでにグランドオペラとしての前奏曲ではなく、オペラコミークとしての活き活きとしたざわめきが感じられます。

以後もラトル~ベルリンフィルのオケ部分は快調で随分、耳をそばだたせられます。そういえばラトルはポストピリオド演奏の世代の指揮者です。ラトルのベートーヴェン交響曲全集もベーレンライター版採用で、ヴィヴラートが最小限に抑えられたピリオド演奏を援用した演奏でした。カルメンも抑制されたヴィヴラートによる溌剌とした表情が新鮮です。ポストピリオド世代の指揮者によるカルメンを聴いたのも、このラトルが初めての経験になりました。

さて、肝心の歌手です。まずカルメンではなくホセのカウフマンの方に痺れました。カルメン一途のホセの心情が真摯にリアルに歌い出されていて胸を打たれます。どこかで聴いた声質だと思ったら、往年のフランコ・コレルリでした。カウフマンは近年のテナーには珍しいコレルリを思わせる少し太めのテノーレ・ロブストの声質です。カラヤンの旧盤のカルメンでのコレルリのホセも素敵でしたが、カウフマンはもしかしたらコレルリを上回る出来です。フランス語の発音と高音の伸びのしなやかさはあきらかにコレルリを上回ります。カウフマンはドラマチックテナーだとばっかり思っていましたが、本来はリリックテナーから出発したようです。それだけに本来がドラマチックテナーだったコレルリよりリリックなのかもしれません。

で、肝心のカルメンです。さて、これが魅力的なカルメン歌唱かといわれると、私には少々疑問が残ります。ここでカルメンを歌っているラトル夫人のコジェナーはモーツァルトのオペラのメゾの諸役やバッハのカンタータを得意とする、音楽的で知的なメゾとの印象を抱いていました。ここでのカルメンはその声楽的にも整った少し暗めの声を生かしたすっきりとした歌唱です。カルメンらしい表情付も十分ですが、それは多分に頭で考えられた表情に聴こえます。

コジェナーのカルメンにはカラスやバルツァのカルメンに聴かれるような魔性の持つ妖しい魅力が希薄なのです。コジェナーにそれを期待するのがお門違いなのかもしれませんが、それは歌唱法というよりもカラスやバルツァが持って生まれた特異な声のキャラクターとコジェナーのノーマルな声質の違いという問題なのかもしれません。

私のカルメン体験はソプラノのカラスから入ったせいか、メゾで歌われたカルメンは、カルメンはこういう声だよというような観念的なカルメン過ぎて逆に物足りなく感じてしまうようになりました。その物足りなさはコジェナーと同じ傾向のメゾで歌われたオッターやガランチャのカルメン歌唱にも感じられます。ガランチャなど映像で見る限り、あれだけ妖艶なカルメンを演じているのに、歌唱そのものはその姿ほどには妖艶なものではありません。同じメゾでも黒人特有の伸びのある美声を生かしたバンブリー(半分ソプラノでしたが)や、独特の粘りつくような裏声が混じるバルツァの声はそれなりに魅力的なカルメンとして聴こえるのですが。

それでも、ここでのコジェナーはラトルのカルメンにふさわしいカルメン歌唱というべきなのかもしれません。オペラコミークの軽快なフットワークを生かしたラトルの棒さばきに、コジェナーの細やかな軽い歌唱スタイルはよくマッチしています。それだけにこの全曲盤は「コジェナーのカルメン」ではなく、あくまで「ラトルのカルメン」になっているのですが。

その他の歌手はエスカミーリョとミカエラに私の知らない新人が起用されていました。エスカミーリョのスモリジナスはバリトンではなくバス(軽めのバスですが)なので、バリトンのように聴こえるカウフマンの重めのテノールとのコントラストがうまくいっています。ミカエラのキューマイヤーは独墺系のリリックソプラノのようですが、瑞々しいきれいな声です。

さて初めて聴くSACDのオペラの音質やいかに?  初めて聴く録音なので残念ながらCDに対するSACDのメリットは正直はっきりとはわかりません(ハイブリッドなのでCD層との比較もできるのですが)。ただ、手前から奥へとオーケストラ、ソロ、合唱と並ぶ遠近感がはっきり聴き取れるのはSACDならではのメリットかもしれません。高弦群が少し細く人数が少なく聴こえますが、録音の音質自体は刺激感のないきれいな音質の録音です。

さてラトル盤の総体的な出来ですが、同じベルリンフィルとのアルコーア版によるカルメンということでは、どうしてもカラヤン、バルツァ盤と比べてしまいます。結果は、声優を別に起用しているカラヤン盤よりも台詞を大幅にカットしているラトル盤の方が断然オペラコミークらしく聴こえるのは皮肉なことです。けれどもカラヤン盤は魔性を宿したバルツァのカルメン歌唱の魅力とカラヤンの手練手管が込められたオーケストラは共に聴きものです。一方、オペラコミークらしい臨場感が際立つラトル盤はそこに存在意義があるといえそうです。その大仰に構えたところのない自然な生々しさは、やはり今という時代性の反映なのかもしれません。

『カルメン』全曲 ラトル&ベルリン・フィル、コジェナー、カウフマン、他(2012 ステレオ)(2SACD+DVD)
icon

ストコフスキーのCBSステレオ録音集成 [クラシックCD]

ストコフスキーがCBSコロンビアレーベルに残したステレオ録音がボックスセットに集成されました。全10枚はオリジナルLP通りのカップリングで、ジャケットもオリジナルと同じ紙ジャケットに収録されています。これで全10枚がレギュラーCDわずか1枚ほどのバジェット価格です。余談ながら米CBSのLPジャケットデザインのアートディレクションは他社に抜きん出たセンスの良さを見せていましたが、CDになってから失われてしまったのは残念なことです。それがこうして復活したのはうれしいことです。

ディズニーのアニメ「ファンタジア」ですっかりストコフスキーの虜になってしまった私ですが、ステレオ時代のストコフスキーのLP体験は英デッカのフェイズ4録音が中心で、英デッカ以外のストコフスキーの録音にはファンの私としても、そのレパートリーに正直なところ食指はあまり動きませんでした。ところがここにきて往年のクラシック録音のデフレ化という思いもよらなかった事態が起こり、英デッカ以外のストコフスキーのステレオ録音がまとめて聴けるようになりました。

けれどもそれらはLP時代にはストコフスキーの演奏としては積極的には聴きたいとは思っていなかったレパートリーが多く含まれています。さてそれを実際に聴いてみた感想は?



icon
Leopold Stokowski-the Columbia Stereo

Leopold Stokowski-the Columbia Stereo

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Sony Import
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: CD


全10枚の構成は、歴史的邂逅と謳われたかつて常任指揮者を務めたオケ、フィラデルフィア管を振った60年録音の2枚、自身のオーケストラ、アメリカ交響楽団と入れた60年代中頃の2枚、そしてストコフスキー最後の録音になった最晩年76-77年のロンドンのレコーディング専用オケ、ナショナルフィルとの6枚という内容です。

・ファリャ「恋は魔術師」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」抜粋

フィラデルフィア管との歴史的邂逅の2枚のうち一枚はワーグナー「トリスタンとイゾルデ」抜粋(第三幕の音楽と愛の死)とファリャ「恋は魔術師」という意表を突いたカップリングです。せっかくフィラデルフィアだったら、他の曲があったのにというのも正直な感想です。実際、聴いてみると、やはりストコフスキーの個性の前ではフィラデルフィアの特徴もマスクされてしまい、他のオケと変わらないという印象もあります。それでも60年というこの時代のフィラデルフィア管には、40年制作の「ファンタジア」に聴くストコフスキー常任時代の面影がかすかに残されているのが懐かしいところです。

ファリャのソロ歌唱にはシャーリー・ヴァーレットが起用されています。同じ黒人系ということもあり、ほぼ同時期にこの曲をライナー盤で録音しているレオンタイン・プライスとの比較が興味を惹きます。結果はヴァ―レットの方は本来の伸びのあるオペラティックな美声を生かした強調感のない素直な歌唱で、それに比べプライスは地声も交えてジプシーらしさを強調した歌い方をしています。プライスがライナーでヴァ―レットがストコフスキーという組み合わせはイメージとしては逆のような気もするのですが。

・バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番、3つのコラール前奏曲

フィラデルフィアとのもう一枚はバッハ集でストコフスキーの十八番のトランスクリプションからコラール前奏曲を3曲収録。3曲だけですが、ステレオで聴けるフィラデルフィアとのストコフスキーのバッハのトランスクリプションはこれだけなので貴重です。カップリングはこれまた意表を突いたブランデンブルクの5番。ストコフスキーのバッハにブランデンブルクの5番があったというのは、すっかり忘れていました。しかもフィラデルフィアで。

ソロはピアノではなくこの時代には珍しいチェンバロを使用。もちろんソロヴァイオリンとフルートはモダン楽器。ピリオド楽器によるこの曲に親しんだ耳には、ソロよりもゴージャスなバックのストリングスの方に耳がいきます。

それにしてもせっかくフィラデルフィアを指揮したバッハだけに、トッカタータとフーガなどもフィラデルフィアとのステレオ録音で聴きたかったところです。フィラデルフィアとのステレオ録音によるバッハのトランスクリプション集が残されなかったことが悔やまれます。


・ベートーヴェン「皇帝」。グールド(ピアノ)

手兵のアメリカ交響楽団と入れたこの録音は、グールドファンでもある私としては既に所有していた一枚でした。グールドはベートーヴェンの協奏曲を全曲録音していますが、共演の指揮者は1番がゴルシュマン、2番から4番の3曲はバーンスタインでした。永年グールドの録音のプロデューサーを務めたカズディンが、5番は何故わざわざストコフスキーを起用したのかというのは不思議な気がします。共にそれぞれ異なる方法ながら通常とは異なるやり方のデフォルメを得意とする両者を組み合わせてみたかったのでしょうか。

結果は通常聴こえないオケのパートがヤケに明瞭に聴こえたりするところなど、いつものストコフスキー節全開。グールドの細部を誇張したマニエリスティックな弾き方もいつも通り。ただこうして改めて聴いてみると、ストコフスキーの強調癖とグールドの誇張癖は、やはり本質的には異質のものであることがわかります。けれどもここでは異質なその両者がコントラストしながら不思議な調和を見せているのも事実です。テンポの指定はグールドに従っているわけですから、ストコフスキーとしては精一杯グールドに合わせているつもりなのかもしれません。当初話題になった22分弱というグールドが指示したという、その第一楽章の遅いテンポですが、ル―ビンシュタイン、バレンボイム盤は22分半というこれよりさらに遅いテンポですし、今となっては決して遅すぎるというほどのテンポには感じられません。にもかかわらず、この演奏が異様に聴こえるのは、やはりグールドとストコフスキーならではのマニエリスムに起因するのかもしれません。

この演奏を単なるゲテモノととるか、個性的な快演ととるか聴く人の判断は微妙でしょうが、長いレコーディングの歴史の中でこういうユニークな演奏が残されたというのは、私には非常に興味深く受け取れます。グールドとストコフスキーというそれぞれ異なる稀代の個性が出会ったこの演奏には、後ろ髪を引かれるような不思議な魔力が感じられます。

・アイブズ 交響曲第4番・他

アメリカ交響楽団とのもう一枚は交響曲第4番を中心に合唱曲と管弦楽曲を交えたアイブズ作品による一枚です。70分弱という収録時間はLP1枚に入っていたのかしら? アイブズはそのコラージュや微分音などの手法により前衛的な現代音楽の先駆者となった一人ですが、その音楽は聴いていて決して面白いものではありません。今回は全10枚のうちの一枚として現代音楽も積極的に紹介したストコフスキーのスーヴェニールとして聴く意義にとどまりました。

以下の6枚はストコフスキー最晩年の録音で録音専用のロンドンのナショナルフィルを振っています。我が家のタンノイで聴くと少しハイ上がりな音質ながらも、アナログ最後期の76-77年録音にふさわしい見通しの良い音場感を備えた安定したステレオ録音で、最晩年のスッキリとアクの取れたストコフスキーの演奏にはよくマッチしています。これら最晩年のストコフスキーの演奏には、従来のストコフスキーの特徴だったデフォルメ(踏み外し)がほとんど陰を潜めているのですが、それでもストコフスキーならではの味わいの濃さは残されています。今回聴いた10枚の中では、今までほとんど耳にすることのなかったこれらナショナルフィルとの6枚の最晩年の演奏が思いがけずもいい演奏だったのは収穫になりました。


・チャイコフスキー「オーロラの結婚」

ナショナルフィルとの録音ではこれだけはカーラ盤で既に所有していた一枚で、今回はオリジナル通りに別の一枚に収録されているトランスクリプション集とカップリングされていました。「オーロラの結婚」はディアギレフが「眠りの森の美女」全曲の中からストーリーに関係なく選びだし曲をギャラパフォーマンスとして一幕に仕立て直したものです。この演奏では本来の眠りの森の美女とはまた別の華麗なショーピースとしての曲の一面が、ストコフスキー一流の手練手管によって浮き彫りにされています。

・トランスクリプション集

ストコフスキー自身の編曲を集めたアンコールピース集はすでに何種か録音されていますが、最晩年のナショナルフィルとのこの一枚は晩年のストコフスキーの好みなのか、ショパンのピアノ曲やショスタコーヴィチの前奏曲とフーガからの1曲などなど、一風変わった選曲です。このストコフスキー最後のトランスクリプション集のジャケットがストコフスキーの後ろ姿であるのは何か象徴的です。編曲自体の一つ一つはどうということのない編曲なのですが、まとめて聴くと、やっぱり面白い!! こういうエンターテイメントの面白さはストコフスキーからでしか聴くことができません。


・ビゼー「カルメン」組曲、「アルルの女」組曲

元来オペラと劇音楽だった作品から抜粋して組曲にまとめられた作品だけに、ストコフスキーで聴くと映画音楽かムードミュージックみたいに聴こえるところが面白いところです。ストコフスキーらしいデフォルメはこんな曲でも抑えられていますが、「アルルの女」のパストラールなど前後の主部がカットされた中間部のみの演奏で、最後の最後までストコフスキー流の改編が施されていたのがわかります。

・メンデルスゾーン「イタリア」交響曲、ビゼー 交響曲

メンデルスゾーン「イタリア」交響曲とビゼー若書きの交響曲とのカップリングで、ストコフスキー最後の録音になったものとのことです。共にほとんどデフォルメは見られないものの、録り直しなしの一発で収録されたというビゼーの交響曲のフィナーレの推進力など見事です。

・ブラームス 交響曲第二番、悲劇的序曲

デフォルメが見られないといえば、このブラームスの「悲劇的序曲」と第二交響曲のカップリングもそうです。何故ブラームスをストコフスキーで聴かなければならないのか、という疑問を払しょくしてくれるかのような、最晩年のストコフスキーらしいケレンのないしみじみとした演奏です。ブラームスがちょっとラフマニフみたいに聴こえるのはこの人ならではの面白さです。

・シベリウス 交響曲第一番、トゥオネラの白鳥

シベリウスの第一交響曲と「トゥオネラの白鳥」のカップリングで、シベリウスのシンフォニーの中で何故一番が選ばれたのかとも思われますが、まだ少しチャイコフスキー風の華麗さの残るこの交響曲はストコフスキーには良く合っていたことがわかります。トゥオネラはストコフスキーがSP以来何回か録音してきた曲ですが、最後のこの演奏はオケの細部の活かし方が絶妙で、今回聴いた中でも思いがけない拾い物になりました。私にとってこの曲の演奏としては、バルビローリ盤と双璧の出来ですが、最晩年のストコフスキーのこの曲の演奏は意外にもそのバルビローリの表現に近接しています。バルビローリはストコフスキーとはずいぶんと個性の異なる指揮者ですが、共に英国人ではないながらもイギリスで活躍したという共通項がこの二人の背後にはある種の共通性として働いていたのかもしれません。


というわけで全10枚は予想に反して、とても面白く聴けました。最晩年のストコフスキーはアクが抜けてここまでスッキリしていたのかというのも新しい発見がありました。それでも決して枯れたというほどではなく、相変わらず映画音楽を聴くようなファンタスティックな味わいの濃さを聴かせてくれているところは、さすがにストコフスキーの面目躍如です。先のRCAセットでは、スタンダードな曲では晩年のストコフスキーはケレンが見られずその分面白くないという印象を書きましたが、これを機会にもう一度RCAセットの中のベートーヴェン、ブラームスやチャイコフスキーの交響曲を聴き直してみようかと思います。



レオポルド・ストコフスキー/ザ・コロンビア・ステレオ・レコーディングズ(10CD)

イヴァン・フィッシャー 春の祭典のSACD [クラシックCD]

東京が猛暑の中、ロンドン五輪が始まりましたが、猛暑というとなぜかストラヴィンスキーの「春の祭典」が聴きたくなります。猛暑も吹き飛ばしてくれるような強烈なサウンドを期待してのことでしょうか。

今回聴いたのはイヴァン・フィッシャー~ブダペスト祝祭管のSACDです。ハルサイマニアの一人としてはかねてから気になっていた一枚ですが、手持ちのハルサイのSACDとしてはサロネン~ロスフィル盤に続いて二枚目になります。

サロネン~ロスフィル盤のSACDは現在出ている非圧縮、シングルレイヤー仕様ではなく、先に出ていたハイブリッド盤の方で聴いていました。これはウォルト・ディズニー・コンサートホールの広大なアコースティックの捉えられたホールトーンのきれいな録音で、CDにはないSACDの実力を十分に堪能できる優秀録音でした(シングルレイヤー盤ではそれがさらにきれいに聴こえるのかしら?)。

フィッシャー盤はスタンダードなハイブリッド仕様です。さて、フィッシャー盤や如何に?


icon
Rite of Spring/Firebird Suite/Scherzo/Tango

Rite of Spring/Firebird Suite/Scherzo/Tango

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Channel Classics Nl
  • 発売日: 2012/02/14
  • メディア: CD



初めはこわごわ併録の「火の鳥」の19年版組曲から聴いてみました。19年版組曲は現在では火の鳥で最も多く演奏されるヴァージョンですが、オリジナルの4管が2管編成に縮小されているだけでなく、要領よくまとまりすぎているがために、オリジナルのファンタジーが薄められてしまっているかのように聴こえてしまい、ふだんあまり食指が動かない曲です。その代り、「カスチェイ王の魔の踊り」のトロンボーンのグリッサンドというオリジナルにはないオマケの楽しみがあるのですが。

さて、この火の鳥が思いのほか、面白く聴けました。フィッシャーの演奏では平準化されてしまったと思っていた各曲にオリジナルの繊細なオーケストレーションとファンタジーの魅惑が生きているではありませんか。それはSACDの優れた録音の効果も手伝ってのことなのかもしれませんが、これならハルサイも期待できるぞ、という展開です。

さて本命のハルサイです。冒頭のファゴットの最高音による出だしから、十分に味が濃く満足させられます。つまらない演奏だと、まずここで何事もなかったかのようにオーケストラパートの中の一部が始まって次に移っていってしまいます。名高い不協和音によるリズムが連打される「春の兆し」も迫力十分。火の鳥の印象から推察すると、もう少し繊細な演奏かと思っていたのに、こちらは迫力十分。フィッシャーはそれだけ楽曲の要求する楽想に的確に反応しているということでしょう。

家庭で楽しむ再生音楽ではダイナミックレンジが広すぎる録音では、この曲の冒頭のファゴットソロのような弱音部の箇所では、音量が小さくなりすぎて音が痩せて聴こえてしまいます。そこへいくと、この録音のDレンジは家庭で楽しめるレベルに抑えられているせいか、弱音部が痩せて聴こえないところに好感が持てます。

デジタル録音になってからはコンサートホールプレゼンスを生かしたワンポイント的な録音が多くなってきましたが、この録音は木管のソロが結構クローズアップされて距離感が近かったり、近年の録音には珍しくマルチマイク的に再生音リアリズムが追及された録リ方です。同じSACDでも、コンサートホールプレゼンスを活かしたサロネン盤とまさに対照的な録リ方です。こういう少し強調感のある最新録音をSACDで聴くのはもしかしたら初めての体験であり、それはそれで独特な生々しさを伴うスリリングな面白さがありました。

興味深かったのはこの曲で多用される打楽器のティンパニ、大太鼓のドラム群の音です。モダンオケだから当然プラスチック製の皮なのでしょうが、この録音に聴く深い音は昔ながらの本革製の音のように聴こえます。私の好みでは、プラスチックの音がしてもいいから、もう少し抜けのいいカラッとした軽い太鼓の音が好きなのですが、この録音のように重い音をしっかりと捉えた太鼓の音も、その意味で見事です。

私はハルサイを生のコンサートでも三回ほど聴いています。そのうちの一度はシャイー~コンセルトヘボウという最高の顔合わせでした。シャイーのハルサイは確かクリーヴランド管とのレコーディングがあるはずですが、その生をサントリーホールで聴いた印象では、コンセルトヘボウを振ったせいか、あまりに渋い地味な響きにガッカリさせられました。生で聴くハルサイって、こんなにも物足りないものなのだろうか? という失望の残った演奏でした。コンセルトヘボウのハルサイといえば、その蒼古なサウンドを逆手に取ったデイヴィスの録音(私にとってのベスト・ハルサイの一つ)はそれなりに十分面白いのですが。

私の音楽体験が生よりも再生音楽による方が圧倒的に多いせいかもしれませんが、それにしてもハルサイは生で聴くよりも再生音で聴いた方が断然面白い曲だと思うのですが。フィッシャー盤は久しぶりに聴く新しいレコーディングによるハルサイになりましたが、その感をあらためて強められた好演、好録音でした。


『春の祭典』、『火の鳥』組曲、ロシア風スケルツォ、タンゴ I.フィッシャー&ブダペスト祝祭管弦楽団

ストコフスキーのRCAステレオ録音 [クラシックCD]

ディズニーアニメ「ファンタジア」ですっかり虜になって以来、ストコフスキーは私にとっての永遠のアイドルです。ストコフスキーのステレオ録音はLP時代には英デッカへの録音中心に聴いていましたが、CDで聴き直してみてもストコフスキーのステレオ録音の最盛期は英デッカ時代にピークがあったことがわかります。RCAへのステレオ録音はLP時代もさほど多くは聴いていなかったのですが、今回あらためてまとめて聴くことができました。

ストコフスキーのRCA時代のステレオ録音の集成は同じ構成で一度発売されたことがあるそうですが、今回は全14枚セットがわずかレギュラー盤一枚ほどのはバジェットプライスでの再発で、解説ブックレットは付きません。ストコフスキーのRCAへのステレオ録音は英デッカに録音する前の60年代前半と英デッカの後の70年代前半の二つの時期に分かれますが、この14枚はほぼその両時期の録音が半々といった割合で収められています。収録曲中のワーグナーの管弦楽曲集はこの両時期にまたがっていますが、本全集では同じCDに収録されています。


Leopold Stokowski: The Stereo Collection 1954-1975

Leopold Stokowski: The Stereo Collection 1954-1975

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: RCA Victor Europe
  • 発売日: 2012/02/21
  • メディア: CD


あらためてRCA時代のストコフスキーを聴いてみると、断然60年代前半の方が面白く聴けました。70年代前半の方の録音は英デッカ録音の後になるので、ストコフスキーとしてはセカンドチョイスともいえるレパートリーが多いせいかもしれません。音質的にも60年代前半の録音の方がむしろ精彩があります。60年代前半のステレオ初期のRCA録音は当時のハイファイ録音をリードしていたものですが、70年代に入ってからの録音は当時の他社録音に比べても特徴に乏しくなってくるのがCDで聴き直してみても顕著にわかります。

その後半録音分にはベートーヴェン「英雄」、チャイコフスキー「悲愴」、ブラームスの4番、マーラー「復活」などの交響曲が収められていますが、これらはストコフスキーとしても案外まともな演奏で、部分的におやっと思わせるアゴーギグはあるものの、この指揮者に期待される予想外の踏み外しを聴くことはできません。同時期のドヴォルザークの「新世界より」はストコフスキーがSP以来何回もレコーディングに取り上げた曲で、終楽章のシンバルの追加(ドヴォルザーク自身のアドリブ指定の一箇所以外にも追加あり)など相変わらずですが、これも以前の録音に比べて特に面白くなっていると思える演奏ではありません。

後期分の中で今回聴いて面白かったのは皮肉にも英デッカに録音のあったバッハのトランスクリプション集とR・コルサコフの「シェエラザード」(こちらもストコフスキーによるオーケストレーションの改変あり)の再録です。バッハは十八番のトッカータとフーガ(生涯数回にわたりレコーディングしているストコフスキーのこの曲の最後の録音で、本全集ではこの曲のみ14枚目のリハーサル集に収録)以外は英デッカ盤と曲のダブリはありません。シャコンヌはブゾーニのピアノ編曲版にも匹敵するオドロオドロしいストコフスキーの面目躍如としたスペクタクルな編曲で、ステレオ録音で聴けるのはこの録音だけなので貴重です。最後の最後でストコフスキーらしいドッキリ仕掛けのオマケが付きます。シェエラザードは曲の解釈もオケの改変も英デッカ盤とほとんど変わっていないのに、左右の分離を強調した英デッカのフェイズ4とは対照的な標準的なコンサートホールプレゼンスのRCA録音で聴くと、また違った印象の演奏に聴こえるのは面白いと思いました。この印象はトッカータとフーガを英デッカ盤と比較しても感じられることです。

前半分はショスタコーヴィチの第6交響曲と「黄金時代」組曲などのように、CDで聴くのが初めてという演奏も含まれていましたが、こちらはどれもがストコフスキーらしい面白さが堪能できました。アンナ・モッフォとの共演盤(「オーベルニュの歌」抜粋、「ブラジル風のバッハ第5番」他)など長らく単独盤のCDがなかったので貴重です。ハーティ版ではない独自の編曲による「水上の音楽」と「王宮の花火の音楽」(花火は最後に花火の打ち上げ音が入ります)は、極めてオーソドックスな2管編成のモダンオケ用に編曲されたハーティ版に比べると、ストコフスキー版は意外にも現在のピリオド演奏の方に近い響きが聴かれます。また、54年録音のメノッティ「セバスチャン」組曲、プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」組曲など、この時期に既にステレオ録音だったことに驚かされます。ロメジュリは現在演奏されている組曲版ともまた異なる選曲で「騎士たちの踊り」や「ティボルトの死」などは入っておらず、二人のラヴシーンと死の場面中心に構成されていて、ストコフスキーの好みの一端を伺わせます。

ストコフスキーのステレオ録音は本命の英デッカ録音もボックスセットにまとめられていますし、RCAのさらに前の50年代終末から60年代初期の米キャピトル録音も集成されています。英デッカ録音は二組に分かれていますが、廉価仕様ですし、キャピトル盤はバジェットプライスです。そこに加わったRCA録音ですが、その前半分は聴きどころが多く、後半分にもバッハとシェエラザードという英デッカ盤とはまた一味異なる面白い演奏が含まれています。これでレギュラー盤一枚という価格は喜ぶべきことなのですが、この円高の一助もあってのLP時代には考えられなかった再発CDの安さには、何やら今という時代性が持つ面妖な時代背景を感じてしまいます。


Icon

Icon

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: EMI Classics
  • 発売日: 2009/07/28
  • メディア: CD



Decca Recordings 1965-1972

Decca Recordings 1965-1972

  • アーティスト: Alexander Scriabin,Claude Debussy,César Franck,Edward Elgar,Franz Schubert,Fryderyk Franciszek Chopin,Hector Berlioz,Henri Duparc,Igor Stravinsky,Jeremiah Clarke,Johann Sebastian Bach,Maurice Ravel,Olivier Messiaen,Pyotr Il'yich Tchaikovsky,Sergey Rachmaninov,William Byrd,Leopold Stokowski,Hilversum Radio Philharmonic Orchestra
  • 出版社/メーカー: Decca
  • 発売日: 2003/11/25
  • メディア: CD



Decca Recordings 1964-1975

Decca Recordings 1964-1975

  • アーティスト: Helen Watts,Donald McIntyre,Alexander Porfir'yevich Borodin,Franz Schubert,Johannes Brahms,Ludwig van Beethoven,Modest Petrovich Mussorgsky,Nikolay Andreyevich Rimsky-Korsakov,Pyotr Il'yich Tchaikovsky,Richard Wagner,Leopold Stokowski,New Philharmonia Orchestra,Grenadier Guards Band,Heather Harper,Alexander Young,London Symphony Chorus
  • 出版社/メーカー: Decca
  • 発売日: 2005/02/08
  • メディア: CD




ストコフスキーRCAステレオ・コレクション(14CD)
icon

レオポルド・ストコフスキー キャピトル録音集(10CD)
icon

レオポルド・ストコフスキー/デッカ・レコーディングス1965-1972(5CD)
icon


続きを読む


ディ・ステファノのナポリ民謡 [クラシックCD]

ディ・ステファノはカラスのレコーディングの相手役として知られたリリック・テノールです。カラスはオペラ歌手としては異例のしわがれ声でしたが、ディ・ステファノは正真正銘の美声でした。カラスのメゾがかった暗い声質に、ステファノの甘味なリリックテナーは不思議にマッチしていました。

ステファノはリリックテナーらしい甘味なうっとりするような美声ながら、その唱法には少し叫びが混じる(その喉を詰める唱法がまたステファノの魅力でした)ところがあって、結果それが、リリックテナーらしからぬ、ある種の強さを感じさせました。カラス同様に、後年急速に声を失っていきましたが、その喉を詰める唱法が原因だったのかもしれません。

ステファノが歌ったナポリ民謡はEMIと英デッカに残されていますが、EMI盤ではモノラルの53年とステレオの61年録音で最盛期のステファノの晴れやかな美声が聴けます。私が聴いていたEMIの国内盤は4大テナーによるナポリ民謡集という2枚組のセットでした。ステファノは単独にも他に国内盤が出ていますが、現在フランコ・コレルリのナポリ民謡が聴ける国内盤はこれだけなので、貴重です。カタリなどの有名曲はステファノとコレルリで聴き比べができるようになっています。


icon
カタリー(イタリア4大テノールによるナポリ民謡集)

カタリー(イタリア4大テノールによるナポリ民謡集)

  • アーティスト: ペルシコ,ディノ・オリヴィエリ管弦楽団,フランコ・フェラリス管弦楽団,コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2001/05/23
  • メディア: CD


さて、EMIへのステファノのナポリ民謡集が何とSACD化されました。今回の英EMIによるSACDはどれも優れたリマスタリングで、その音質改善効果のほどは別項の本ブログに書いています。

ステファノのナポリターナは前記4大テナー盤で音質上も十分というところがあったので、2枚の国内盤のSACDの購入はためらっていたところ、本国の英国EMIから二枚組の廉価盤でリリースされました。廉価盤といっても限定盤仕様で、豪華なアルバムに収められています。何と二枚で国内盤一枚を下回る価格、これは購入しないわけにはいきません。もちろん、対訳がないのは歌モノではマイナスでしょうが、それさえ我慢すれば、信じられないような低価格です。

国内盤の方が一足早いリリースだったので、国内盤はプレミアム価格ということで、大目に見ておくことにしましょう。ちなみに、ギーゼキングのドビュッシーの4枚のSACDは国内盤ですでに2枚購入していましたが、この機会に英国盤の4枚組セットで買い直しました。こちらも4枚で国内盤1枚を下回る価格でした。


Neapolitan Songs: Limited Signature Collection

Neapolitan Songs: Limited Signature Collection

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: EMI Classics
  • 発売日: 2012/04/09
  • メディア: CD



さてこの二枚組ですが、同じリマスタリングなので当然二枚の国内盤と同じ構成です。内容はオリジナルの二組のステレオ録音が、それぞれ1枚ずつに収められています。一枚目はトスティの歌曲(オーケストラ伴奏)を中心とした旧録音がそのまま一枚にトランスファーされているので、収録時間は40分少ししかありません。2枚目はトスティも含む様々な作曲家のナポリターナを収めたもう一組のステレオ録音が収録され、こちらには余白にモノ録音からの7曲が併録されています。カタリなどの有名なナポリターナはこのモノ録音の方に多く含まれています。

ステファノのナポリターナは、こうして通して聴くと、やはり素敵です。こういう甘美なしかも強靭なリリックテナーの美声は、他の歌手には望めません。この声でナポリターナが聴けるとは!!

もう一つあらためて気づいたのはステファノの歌唱法の意外な新しさです。この時代の歌手にしては随分とポルタメントの少ないスッキリした歌い方です(カラスの方がむしろポルタメントが多い?)。 その歌いくちにリリックテナーの美声が加わったステファノのナポリターナには独自のプレーンな魅力が感じられます。

61年のステレオと53年のモノ録音の音質の差は残念ながら、かなり明瞭に聴き分けられます。ステレオ化に後れを取ったEMIらしく、61年録音も疑似ステレオのような音場感ですが、それでも音質そのものは53年のモノより格段に進歩しています。録音とは逆に、この8年という年代差は、53年の若き日のステファノはさらに輝かしい美声を聴かせていたことがわかるのは皮肉です。

さて、SACDの出来や如何に。やはり今回のDSDリマスタリングは見事です。旧リマスターでは喉を詰めるステファノの強さの方が強調されて聴こえたのですが、新リマスタリングではリリックテナー本来の軽ろやかさが聴けるようになりました。この改善効果はハイブリッドのCD層でも確認できるのは、このシリーズの他盤同様です。

それにしても、円高にデフレが重なって旧録のCDは、ボックスセットやシリーズものなど信じられないような低価格で購入できるようになりました。ここまで低価格になると、購入意向のハードルが低くなり過ぎないかという贅沢な悩みすら抱くようになります。お蔭で、CD用の収納ラックを1ケース増やさざるを得ないはめになりました。



Neapolitan Songs: Di Stefano, Corelli, Gigli, Schipa
icon

ナポリ民謡&イタリア歌曲集 ジュゼッペ・ディ・ステーファノ(2SACD限定盤)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。